久保さんは里香の話を聞いても、無理に励ましたり、説教したりせず、ただ黙って聞いてくれた。好きだな、とぼんやりと心に芽生えた気持ちがどんどん大きくなり、期待する。 久保さんの左手の薬指に光る指輪のことなんてどうでもよくなるくらいに。
「里香ちゃんはいい子だから、がんばっているの、見ている人見ているから」
里香のコップはすぐいっぱいになる。表面張力で耐えるコップは少しの振動でこぼれそうになる。電話の着信音で、涙をのみ込む。久保さんが電話で二、三言話してから、電話を切って、首をすくめる。
「風邪だって。アイス買って帰らなきゃ」
久保さんの家庭を感じる言葉に一気に現実に引き戻される。
「優しいですね。うらやましいな、奥さん」
「車で送るよ」
コンビニに寄って久保さんが戻ってくると、ビニール袋に入ったアイスを後ろの座席に置いた。運転席に戻ると、車の中で不自然な形で、抱き寄せられた。久保さんが耳元でささやいた。
「純粋だから、悪いことを教えたくなっちゃうよ」
久保さんはごく自然に里香のおでこにキスをした。
「アイス溶けちゃいますよ」
車内の暖房でアイスよりも先に私の思考の方が溶けだしていた。耳元がこそばゆい。
「里香ちゃんは大丈夫だよ」
なにが大丈夫か分からないまま、しがみついていたかった。久保さんの熱を帯びた唇がおでこから、まぶた、鼻筋をくすぐるようにして降りてきて、唇にたどり着いた。吸いついて、離れて、また吸いついて、息苦しい。体の中心が不安定になって、しがみつくことしかできない。
家まで送ってもらって、やっと一人きりになったベッドの中で、里香は大丈夫、大丈夫と言い聞かせた。
「続きはまた今度」
呟かれた耳元が熱い。
冷静な頭になると、二人きりで食事に言ったことや私だけお酒を飲んだことや無防備に車に乗った自分が愚かしく感じた。少なくとも、王子様は既婚じゃない。
このままいくと、久保さんの思い通りにすっかり溺れてしまうかもしれないという危機感なのか、道徳に反したくないという思いからか、久保さんの言う二回目が訪れる前にあっさりと恋人ができた。