小説

『滅びない布の話』入江巽(ゴーゴリ『外套』)

 改札を抜ける直前に見たプラットホームの電光掲示板、二〇一六年四月二十三日、土曜日のゆうがた五時四十六分を表示していて、気持ちの奥にはっきり、火が燃える。すこしだけ早足にしたつもりがそれで終わらず、自分が速めに歩きはじめているのか遅めに走りはじめているのか、よくわからなくて、気持ちいい。御堂筋線心斎橋駅の八番出口へ向かい、タントンタンと駆けるとき、脚はとても軽やかで、イヤホンを通してアイフォンから流れるエディ・ジェファーソンの「サイケデリック・サリー」は、アバラの骨を掛け違えたようなBメロになるところ、パンポコパンポコのAメロがタッツク・タン、タッツク・タンというリズムへ変わり、エディ・ジェファーソンの声はそのリズムをさらに複雑にするように自由で技巧的、この音楽の、饒舌なような、もどかしいようなリズム、階段のぼる脚に絡まっていくようで、とてもいい感じ。いま階段踏むステップのすべてのように、気分はなめらかで強い。
 なめらかで強いものが俺はすき、なめらかなものばかりすきなひと、強いものばかりすきなひと、そんなひとばかりで満ちた世相だから、なめらかで強いものをひとり、探さないといけない。俺が見つけたなめらかで強いものはスーツで、注文してからずっと待ってた四週間は仮縫いをはさんでウズウズと過ぎ、おととい木曜日、やまびこ洋服店の木村さんからの電話は型枠大工の俺の現場が終わる五時すこし過ぎ、バッチリなタイミング、「中塚さん、いつもお世話になってます、ご注文いただいたスーツとシャツ、上がりましたんで、引き取りお願いします」、あっ、そうですか、答えながら、その五秒前まで道具片付けながら聞いていた職場の後輩のケイタの話、きのうパチスロで二万勝ったとかどうとかが、スッ、と遠くなる。「あさっていきますわ、残り、いくらでしたっけ?」「ご注文のとき、十万、入れてもらってますんで、残りが六万四千円です」、「わかりました、そしたら土曜日に受け取りにいきますわ」新しいスーツが出来た。たまらないよ、そっけなく用件だけ、二分にも満たずに切った電話の余韻、かえって大きく、期待にシビレる。ツカさんなんか買うたんすかバイクっすか、それとも借金の催促すか、ちょっと脳みそ足りないが美しい無垢に見えなくもない、とても薄い茶色のケイタの瞳、ちらと見て、ええもん買うたわ、とだけ言う。なに買うたんすかなに買うたんすか、しつこいわ、手近にあった仮枠ハンドルでケイタのあたま打つマネすると、たたいてかぶってジャンケンポン、ケイタ言いながら脱いで転がしていた自分のヘルメット素早くかぶり、俺の表情伺い、犬のようにうれしそう。ケイタ高校出たばかりだからこんなこともおもしろいのだろう。いやそういう言い方は違うか。俺は六年前、高校出てすぐ島田工務店に就職したときから、別にこういうふざけ方しなかった。最近の若いもんは、って社長の島田のおやじさんみたいな発想しとったら仕立て上がりの新しいスーツの若さに失礼だし、若いとか若くないとかじゃない。ケイタという人間がただアホなんだという言葉が正確と思い、お前は一生グーチョキパーの三種類からなにを出すかを選んどれ、言うた。
 次の日、金曜日の千里中央の現場のコンクリのことあまり見ていられなくて、出来上がるスーツのことばかり考えて上の空、脳ではなく手が仕事した。

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