小説

『兎ろ兎ろ。(とろとろ)』紅緒子(『うさぎとかめ』)

 太郎くんはかばんからポケットティッシュを出してスーツを拭いている。 そういうときはまず女の服を拭いてやるもんだろう。
 亀は怒りも笑いもせず、ただあたしをじっと見つめいていた。
 あたしは全速力で走って学校に戻った。後ろを振り返ると、亀と太郎はバスに乗って消えてしまった。太郎が捨てた白いティッシュとあたしがぶちまけた赤い液体が混ざり合って誰かがゲロを吐いた後みたかった。
 ああ、あたしたちはもう二度と会わないんだな。だけど、あたしはこれからもずっと亀の人生を想像しながら、勝手に競争をしていくだろう。
 同じ道を進んでいたはずなのに亀のことを全然わかっていなかった。あたしは少女に固執しながらも、大人になっていたつもりだったけど、人の心も自分の心もまるでわかっていなかった。
 マスカラが目に染みる。ああ、また目が充血していく。きょうで世界が終わったからって、暗くなっていたらもう走れなくなる。あたしはこのまま人も自分も傷つけまくって生きてゆくのだろう。それが正直な本当の自分である限り、ずっと心だけは少女でいるために、他人を破壊しても、孤独過ぎて涙が一杯出ても、こういう戦い方しかきっとできない。

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