小説

『兎ろ兎ろ。(とろとろ)』紅緒子(『うさぎとかめ』)

 大学の夏期講習がはじまったけど、先生は教科書をそのまま読むだけだから聞く価値は全く無かった。アプリでマンガを読んだりゲームしたり、LINEで会話している学生も目立つ。おしゃれ系の目立つ同じ学部生とはだいたい顔見知りになったけど、センスのある会話ができるやつがいないから、亀とつるんでいるほうがいい。亀はクラブのときと同じように、どんなに話がつまらないやつの前でも不機嫌な顔は見せない。いつも証明写真みたいに、少しよそいきの顔をして微笑んでいる。あたしは亀みたいにそこそこの現実を受け入れて満足したくない。
 こんな毎日でいいのか。急いで速くほかの場所に行かなきゃ。本当のあたしの居場所はここじゃない。どこかわからないけれど、全速力で走る気持ちはある。若くてかわいいうちのほうがきっと速くその場所にいける。
 夏期講習最終日の授業が終わったあと、何かチャンスがほしくて、赤いハイヒールでキャンパスを歩き回ってみたけれど、足が水ぶくれになるだけだった。後ろからもさっと着いてくる亀が、なんだか自分の分身みたいに見えて、途中からバスに乗ってまいてやった。亀から「どこにいるの?」とLINEが来たから「地球」と答える。あたしは月から来たうさぎだから、いつか月からお迎えがやってきて、この退屈な世界を連れ出してくれるんだ。バスの窓にうつる自分のツインテールをいじりながら、乙女な妄想をしてやり過ごす。
 あたしのゴールはどこにあるんだろう。ずっと少女ぶっていたいから成長するのはこわいし、将来の夢なんてない。でも何かでっかいことはやってみたくて、目的地が見えないまま、急いで向かっているけれど、正しい走り方がわからないから迷ってばかりだ。
 さびしくなって泣きたくなる。こんなときに頭をなでなでしてくれる王子様がほしいけど、見つかりそうにないから亀にLINEした。延々とアニメや理想の王子様について文字にしあっていたかったのに、亀からメールを終わらされてしまう。
「カフェのバイトの時間だからごめんね」
亀のくせにマイメロディーちゃんのスタンプまでつけてきやがった。でもあたしに忠実でいてくれるのは亀ぐらいしかいないからムカつくけど許してあげる。タイミングよくバスがカフェの近くのバス亭に来たので、客としてお茶しに行って喜ばせてやることにした。亀に見つからないようにさっと店内に入ってカプチーノとブルーベリータルトを注文した。あたしに気づかず、亀はせっせと客の注文をとり、客の唾液と指紋にまみれた食器を片づけ、レジでお金を数え続けた。平凡な女の子の代表みたいな亀のがんばる姿を見て、本当にブスだなと思った。顔の造りはそこまで悪くないのに、目も鼻も口も人間くさすぎる。あれが唯一の友達なんて、この現状をどうにか抜け出したいのに、亀があたしに気づいてほっとしたような笑顔を浮かべるので、やっぱり友達でいてあげようとほだされてしまうのだ。

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