小説

『シェーベ』中村崇(『透明人間』H・G・ウエルズ)

 翌朝稔がかけ蕎麦を啜り終えると、茜は素早くどんぶりを取り上げ、流しに運んだ。たまには洗おうかと尋ねる稔を押しとどめ、早く出ないと遅れるよ、と急かした。たしかに出勤の時間だった。
 玄関まで稔を送り、どんぶりを手早く洗った。朝食の片付けは茜の役割だった。稔はやってくれようとするが、断っていた。茜はいつも三人分の朝食を作っており、食卓に並ぶ事のない三つ目を稔に見られたくなかった。
 茜はその朝食を持ってピアノの部屋に入り珈琲テーブルに置いた。オムレツ、サラダ、パンのワンプレート。毎朝、稔を送り出した後このテーブルに朝食を置き、帰宅すると片付けていた。
 チャイムが鳴った。誰だろうとカーテンの隙間から玄関の方を覗く。窓は出窓で玄関を斜め下に見下ろす事が出来るようになっていた。向こうにも気づかれやすいが、カーテンの隙間から覗く分には問題なかった。玄関に立っているのは彩だった。茜は出窓を開けると身を乗り出して手を振った。
「おはよう」
「おはよう。どうしたの?」
「たまには一緒に行くのもいいかなって」
「待ってて」
 部屋を出て手早く身支度を整えると玄関に向かった。彩はきっと昨日の事を気にしてわざわざ遠回りして迎えに来てくれたんだろう。そう思うと胸が温かくなった。
「おまたせ」
「うん、いこっか」
「あれ?」
 茜の家の塀に、自転車が立てかけられていた。
 放置自転車の多い地区だった。所有者が一時的に置く事もあるし、盗難自転車が乗り捨てられる事もあった。塀によって出窓から死角になっているため放置しやすい場所なのかもしれない。今回放置されている青い自転車は初めて見るものだった。
「どうしてこんなに目立つ自転車乗り捨てるんだろ」
「子供用じゃない? 放置じゃなくて、そこら辺にいるのかもよ」
「そうかな」
 二人は考える事をやめてお喋りをはじめた。お喋りをはじめるとすぐに夢中になり、放置自転車の事などどうでもよくなった。

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