小説

『シェーベ』中村崇(『透明人間』H・G・ウエルズ)

 茜は家に帰ると家中の明かりをつけて回るのが日課になっていた。がらんとした居間を見て、茜は「ふうん」と口に出してみたが、答えてくれる人は誰もいなかった。やるべき事を全て済ませてしまうとテレビの前に寝転がり、リモコンを操った。特に面白い番組はなかったが、なんとなく眺めて時間を過ごした。

 携帯電話のベルが鳴り、反射的に耳にあてたところで眠っていたことに気がついた。
「はい」
「おう」
 声で電話の相手が父の稔だと気づく。今何時だろう?
「もう飯食った?」
「うん、彩とファミレス行った」
「おう、豪勢だな。じゃあいいや。あのさ、悪いんだけど今日また遅くなっちゃうんだよ。飯もこっちで食うから気にしないで」
「うん」
「じゃ、しっかり戸締まり頼む。今日はちゃんと鍵持ってるからさ」
「はーい」
 変な体勢で眠ってしまっていたので腰と肩の辺りが少し痛かった。
 二階に上がると三つある部屋の真ん中が茜の部屋だった。茜は部屋に入る前、いつものように右手のつきあたりにあるドアを眺める。やがて目を逸らし自分の部屋に入ると逃げ込むようにベッドに潜り込んだ。しばらく布団を干していない。土曜日にはちゃんと干そう。そんな事を考えながら眠りに落ちた。
 どれほど時間が経ったか、物音に目が覚めた。稔が帰ってきたのかもしれない。そう思って出た廊下には、稔のいびきが響いていた。いつの間にか帰ってきていたようだった。耳を澄ますと、例の部屋から微かに物音が聞こえたような気がした。ドアに耳を当てると、檜の香りが鼻の奥をくすぐった。ドアは湿気を含んでほのあたたかかった。ドアを開ける。少し埃っぽい匂いがする。珈琲テーブルとソファーがある他は、壁際にアップライトピアノがあるだけの部屋。家の中で最も小さな部屋だが、最も家族の思い出が詰まった部屋だった。ピアノの蓋を開けベロア生地のカバーを外すと滑らかな鍵盤が現れる。その内の一つを優しく叩いてみる。透き通った音が部屋に響いた。調律が合っているのか判断がつかなかったが、懐かしかった。お母さんなら、音の狂いを瞬時に聴き取った。

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