小説

『シェーベ』中村崇(『透明人間』H・G・ウエルズ)

「僕ね、べつに人を怖がらせたいわけじゃないんだ。殺したいけど怖がらせたくはない」
「なにそれ! 彩は怖がってなかったって言うの!」
「怖がる前に殺しちゃってたからね」
 もうこれ以上は無いと思っていたのに、茜の身体はさらに震えた。
「なんで殺したの!」
 叫びすぎて喉が痛かった。自分の荒い呼吸だけが部屋に響く。
「シェーヴェ洞窟の壁画を知ってる?」
「は?」
「世界最古の壁画。三万二千年前に描かれた。言語発生は一万年ちょっと前だよ。どういう事か分る? 人類はね、言葉が生まれるずっと前から言葉にできない何か。という衝動を抱えていて、それをどうにか形にしたいと強く願っていたんだ。その衝動を形にしたのが絵画。その証拠がシェーヴェだ。だろ? その衝動は言語が発達した今でも根強く残っているよね? 言葉にできないから表現するんだ。なぜそこに言葉の説明を求める? 言葉を加えた時点で純粋性は失われてしまうのに」
 サイレンの音が近づいてくる。足音が茜の前を通過し、ドアの方へ向かっていった。足音が止む。気配で相手が振り返ってこちらを見ていることが分った。言葉にできない何かに今、見つめられている。こめかみが脈打ち頭頂部が痺れる。
 やがてドアが開くと足音が遠のいてゆき、消えた。
 しばらく惚けていたが、気がついて稔に駆け寄った。稔の顔を歪む。よかった。生きてる。階下で玄関のドアが開く音がして、大勢の足音がきこえてくる。
 赤色灯の回転が、目の前にまで届いてくるようだった。

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