小説

『いつか、翼が』川瀬えいみ(『鶴の恩返し』)

 命を救われた鶴が、恩返しのために、人間の姿になって男の許にやってくるのもいい。昔話にはよくある展開だ。
 命には命を。男の妻に迎え入れられた鶴は、我が身から引き抜いた羽根を縫い込んだ布を織り、男に富をもたらす。
 鶴が、機を織っている姿を見ないでくれと夫に告げる気持ちもわかる。鶴は、自分が人外のものであることを夫に知られたくなかったのだろう。
 『見るな』と言われた夫が、機を織る妻の姿をつい覗き見てしまう気持ちも理解できる。好奇心を持つ生き物だからこそ、人間の社会は種々の文化や技術を発展させてきたのだ。
 真の姿を見られた鶴が夫の許を去るのも、禁忌を破った男への報いとして、至極当然のことだと思う。納得できる。
 しかし、なぜ彼は鶴を追わないのか。これほどの愛と献身を捧げられても、男はその心を動かされなかったのか。愛しく思うなら、男は鶴を追うべきではないか。
 心から悔いて、謝って、「もう一度、共に暮らそう。おまえの感謝の気持ち、命がけの献身はわかった。今度は俺がおまえに報いたい」と訴えるのが、人の道というもの。
 私なら、そうする――と翔子は思うのだ。
 私が鶴の夫だったなら、必ず、彼女を追いかける――と。
 けれど、物語の男は動かない。

 その展開を不快に感じるあまり、翔子は、それが決して覆すことのできない昔話の掟なのかと、日本の昔話について調べたこともあった。
 『蛇女房』『蛤女房』『葛の葉狐』――人間に化身した動物を妻とした男は、多くの場合、『見るなのタブー』を犯して、別れを余儀なくされていた。確かに、最後の別れは、昔話のお約束のパターンのようだった。
 だが、例外もあるのだ。
 琵琶湖の『鮒女房』の夫のゲンゴロウは、鮒の姿に戻った妻を追いかけて、自身も鮒に変身している。
 妻と引き離された夫の物語というのであれば、『絵姿女房』の夫は、殿様に奪われた妻を取り返すために、殿様の城に、単身乗り込んでいる。
 例外はあるのだ。

 なのに、『鶴の恩返し』の夫は妻を追わない。命をかけた愛と献身を示してくれた妻を追っていかない。

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