小説

『いつか、翼が』川瀬えいみ(『鶴の恩返し』)

 逆に、与沢さんは顔を空に向ける。
 高く遠いところにある澄んだ秋の空。
「今年はどれくらい飛んできてくれるかなあ……」
 天を仰いだまま、与沢さんは長く吐息した。

「一羽の純朴な鶴が、善良だが浅慮な男を慕い、我が身を傷付けながら彼に尽くす。だが、優しかった男は、鶴の純粋な思いを裏切り、欲に汚れてしまう。鶴は男が変わってしまったことを嘆き、彼の許を去る――。男が鶴を追いかけられると思うか? 男の翼は、欲で腐り落ちてしまったんだ。追いかけられるわけがない。追う権利もない」
「追う権利がない……」
「人間が仕掛けた罠にかかるような無知で非力だった鶴は、ひたむきな献身で高潔な存在になり、無欲で優しかった男は欲にまみれ、地べたに這いつくばって生きる下劣な生き物になり下がった。いつのまにか、助けられた鶴の方が、助けた人間より高次の存在になっていたんだ。『絵姿女房』の夫は、共に地上で生きていく人間同士だから、妻を追いかけられた。『鮒女房』の夫のゲンゴロウは、傷付いた鮒を助けた時のまま、優しい心を保っていたから、妻を追っていけた。だが、『鶴の恩返し』の男は――」
 彼は、その心が欲に汚れた時、妻を追う翼を失ってしまったのだ。
 与沢さんの、翼のない痛々しい背中――。

1 2 3 4 5 6 7