小説

『いつか、翼が』川瀬えいみ(『鶴の恩返し』)

 合唱部に在籍していたことはあるが、正規の音楽教育を受けたことはない美鶴さん。声や歌い方は至って素朴だが、音域は広く、声量もある。それが聞く者の感情を掻き立てる。彼女が歌う様々なジャンルの歌やスキャットが、舞台やドラマの音響作品として注目を浴び、彼女は今では大変な売れっ子なのだそうだった。
 本名も年齢も性別も不肖の覆面歌手。だが、この辺りの大人たちは皆、気付いている。あれは、与沢さんの恋人だった美鶴さんだと。
 美鶴さんは、高校時代、劇の舞台の音響を一人で務め上げたこともあったらしい。衆人の千声を一声で消し去るほど優れた声は、まさに鶴の一声。冬の夜明けのように澄んだ声を持つ人だった――。
 鶴の保護区を示す看板を立て直しながら、翔子の父はそう言った。

「美鶴さんは、どちらかというと控え目で、尽くすタイプのひとだった。彼女がそんな力を身につけたのも、舞台に立つ与沢を裏方として支えるためだったろう。だが、皮肉なことに、世間が認め必要としたのは美鶴さんの声の方。与沢は大成せず、一人で故郷に帰ってくることになった……んだろう」
 それが、高校時代の二人を知る者たちの推察ということだった。
「与沢さんは、その美鶴さんってひとのこと、まだ好きなのかな? 今でも独身ってことは」
「美鶴さんもまだ一人のようだ」
 翔子の父が呟く。
 二人がなぜ、どんな経緯で別れたのかを、与沢さんは誰にも語らないらしい。
「与沢みたいな派手さはないが、美鶴さんは穏やかで品のある人で……当時の俺たちには、二人は羨望の的、理想のカップルだったんだがなあ」
 言いながら、翔子の父が、若い頃を懐かしむように、稲刈りの終わった田の上の空に視線を投じる。
 晴天続きの秋の空は、今日は、ひどく遠いところにあった。

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