小説

『なんとなく楽しい日』真銅ひろし(『浦島太郎』)

 そう言って母親は家の中に戻っていった。なんとなく行き先を言えなかった。別に何も後ろめたいことなどないのだが、特に詳しく話す理由もなかった。
「・・・。」
 ゆっくりと自転車をこぎだす。
 春のよく晴れた日の昼。かなり気持ちがいい。これで花粉症でなかったらどんなに最高だろうか。

 東京にはだいたい22年位いたと思う。画家を目指して美大に通った。実家の福島を出る時は期待に胸を膨らませていた。
 怖いものなど何もない、自分は画家として輝かしい未来が保証されている。と、勝手に夢想していた。
 けれど現実はかなり違っていて活躍にはほど遠いものだった。大学卒業後は就職をせずに絵を描くのに没頭した。生活は絵画教室の講師を何か所かして生計をたて、足りない分は居酒屋で働いた。
 個展を開き、たまにイラストの仕事を貰い、絵画コンクールに出品する。
 これの繰り返し。初めはこれで充実していた。将来に何も不安はなかったし、いつかきっと世間が自分に注目し、日本のみならず世界中からオファーが殺到するに違いない。そんな揺るぎない自信が26位まではあった。26位までは。
 一度自信を失った人間はとても危うい。
 そこで「なにくそ」と行動し続ける人間はなんとなく持ち直す希望があるだろう。しかし逆に行動するのが「怖い」と感じて何もしなくなった人間は持ち直すのは困難だ。
 目の前には常にグレーのモヤがかかり、他人と比べる事を始め、何か行動しようとすると先の事や周りの目を気にして動けなくなってしまう。
 私は26くらいを境に徐々にこの状態に陥った。下に沈み始めたら転覆は速い。絵を描く時間をあまりとらなくなり、絵画教室の講師もなんとなく惰性でこなす。居酒屋の出勤日数も増え、家に帰れば疲れて眠るだけの日々。

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