小説

『大文字百景』今泉きいろ(『富嶽百景』太宰治)

 高名な絵描きが筆を執るまでもない。京都五山の一つ、大文字山を、絵に描くのは、誰にだって、容易い。山書いて、その中腹あたりに「大」の字書けば、もう、それは大文字山である。丸書いてちょん、などと始まる絵描き歌があるが、大文字山の場合は、なんのことはない、「へ」かいて「大」、だけで、おしまいである。
私が小学生の時分、初めて学んだ漢字が、この「大」であった。『大きなかぶ』というお話に出てきた。
つまり、小学一年生でも、簡単に、描ける。あの五山送り火で名高い、京都盆地の東に佇む山を、描けてしまうのだ。だれが見ても、見紛うことは、あるまい。 
一年半前、初めて私はこの山に登った。登った、というほどのことでもない。標高465メートル。ものの小一時間ほどで、あっさりと頂上に到着する。毎日日課で登る人もいる。一日何度も登る人もいる。電波状況もすこぶる良好である。山の形は、上から、えいと、つぶされたおにぎりである。「大」さえなかったら、北方にそびえる比叡山の手前、それほど目立った存在でもない。
ここに来るまで、あの頃は、私も、大変だった。過労がたたり、もともと肺が悪かったのをこじらせ、長い間、断続的に入院することになった。名のある大学を出て、つかんだ一流企業でのポストは、想像していたよりも、遙か重く、私にのしかかっていた。精神的にも、病になっていた。休日を返上して会社の仕事に追われる私に、妻はそうそうに愛想を尽かした。
アパートの広い部屋に、私ひとり。そのときは大文字山を遠望する、市内北部に住んでいた。夜、ビール缶を数本空にし、休日ではあったが、パソコンに向かい合って仕事をしていた。
突然、表の方で、おぉ、と歓声が上がった。子どものはしゃぎ声が、聞こえた。
なんとなく、気になって、気分転換もかねてベランダに出た。どんよりおもい夏の空気が顔をなめた。アパートの向かいにある公園に、数組の家族連れが集まっていた。
「ついた! ついた!」
子どもの声が、夜の住宅地に響いた。じめじめした熱帯夜の空気の中で、その声は、場違いなぐらい、きりりと澄んだ音として、私の耳に届いてきた。ぼうっとしている頭の中で、公園に着くことがそんなに嬉しいのかなどと、間の抜けたことを考えたが、無論、違った。その日は8月16日、そう、五山送り火の日であったのだ。彼らの視線の先には、山の中に赤々と燃える「妙」「法」の字が浮かんでいた。市内北方にそびえる「妙法」の送り火だった。
五山送り火。大文字山の「大」が、最も有名であるが、ほかにも、万灯籠山と大黒天山の「妙法」、西賀茂船山の「船形」、上嵯峨の「鳥居形」、大北山の「東大文字」の、4つの送り火が焚かれるのである。私はそのとき住んでいた家から一番近い、「妙法」の字を見上げた。闇の中に浮かび上がるその文字は、なにやら神秘的で、妙に美しく、それを見て、私の心は、沈んだ。
 

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