小説

『大文字百景』今泉きいろ(『富嶽百景』太宰治)

 その木を救済する手段を、うろうろしながら黙考している様子の女性をそこに残し、私は一人、山頂へと向かった。山頂のベンチで休憩していると、
「今日は、よく見えますね」
 と、私の後ろで言う声がした。振り返ると、静かな佇まいのおじいさんが立っていた。
「今日みたいに、大阪湾まで見渡せることは、滅多にないのですよ」
 私は、また、はあ、と謂うしかなかった。確かに、頂上の展望台からは、京都市街、そして鴨川淀川、その先に大阪の摩天楼がかすかに見えた。圧迫感、寒々しさ。何百万の人々が生活する土地のパノラマは、なんだか私にとっては、気の滅入るものだった。
 そこへ、先ほどの女性も、遅れて山頂へと現れた。私を見るなり、さきほどはどうも、と挨拶し、それから、老人に向かって言った。
「大山さん、例の神社、本当にあるんですか? 何時間も探しましたが、いっこうに見つかりませんでしたよ。危うく遭難しかけました」
「はて、見つかりませんでしたか。でもそれはありますよ。なかなか気づきにくいのですが、そんなに遠くはないはずです。実は本当は見つけているのに、見つけたことに気づいていないだけかもしれません」
「本当ですか?」
「まあ、これからじっくり時間をかけて見つけて下さい。なくなるものではありません。それより、ほら、今日は空気が澄んでいます」
大山さん、と呼ばれた老人は、菩薩のような微笑みを浮かべて、展望台から見える景色に目をやった。
「まあ、今日はやたらと空気が澄んで、きれいですね。なんだか、おあつらえ向けの絶景といった感じです。でも、私はもっと、空気が濁っていて、霞の彼方に反対側の山が、ぼおっと、浮かび上がるような、そんな景色の方が好きですよ。なんだか、これは、できすぎです」
 鶴さん、というらしい女性は、あっさりと答えた。老人は、微笑みを崩さぬまま、
「鶴さんの好みは、面白いですね。絶景を見たくて、みんな登るのに」
 と言った。そして、ふと私の方を見て、こちらの人は、と訪ねる。
「ああ、さっき山道で出会った人です。変な道から出てきたり、木に頭ぶつけたりと、ちょっと恥ずかしいところを見られてしまいました。それで、黙って立っていたと思ったら、気づいときには、いなくなってるんですよ。なんだか狐に化かされたような気がしていました。ちゃんと人間で安心しました」
 私は黙って、二人の会話を聞いていた。こちらだって、あなたが熊でなくて、少しは安心したのだが、私は何も言わなかった。他人が自分の話をしているということは、考えただけでも、怖いことであった。それでも、下界と違う、山の空気感のせいか、もしくは、この二人の人物のせいか、普段ほどは、恐怖を感じなかった。それからしばらく二人は談笑して、それぞれ山を下りていった。
二人が下山してからも、私はしばらくその場にとどまり、木でこしらえてある腰掛けの上にあぐらかいて、何もしなかった。ただ、座っていた。「おあつらえ向け」の景色と対峙しようとしつつも、ほとんど目はつぶっていた。端から見たら、なにか、並々ならぬ祈祷を行っている高僧のような佇まいであるようにも、あるいは見えたかもしれない。

 

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