小説

『大文字百景』今泉きいろ(『富嶽百景』太宰治)

 冬が過ぎ、春が来ようとしていた。その日、私は、健太くんに手を引かれ、鶴さんと大山さんと一緒に、山を下りた。桜の開花までは、まだ早かったが、それでも銀閣寺参道は、観光客で賑わいを見せていた。
「私、転勤で、4月から、舞鶴に住むことになりましたの」
 鶴さんは、不意に言った。
「そうなんですか。それは、・・・・・・」
「それで、向こうにいる知り合いがですね、農業しながら、野菜やらお米やらの、有機栽培の小さなお店をやってるんですけど、そこに男手が欲しいと、ずっと言っているんですよ。良かったら、そちらを手伝いに来ませんか」
 黙っている私に、大山さんは、ほほえんで言った。
「ほう、いい話かもしれないですよ。むこうも、ゆったりできるのではないですか。鶴さんもいることですし」
 鶴さんは、少しうつむいて、言った。
「ええ、まあ、向こうも向こうで、結構大変みたいですが、でも、良いところだとは思います。私も、その、・・・・・・いますし」
「おじちゃん、また、何かあったら、いつでもここに帰ってくればいいんだよ」
 健太君は、無邪気に言った。
最初の一言のときから、私の心は、もう、決まっていた。
 ふと、写真を撮ろうと思った。哲学の道を上ってくる、健太君ぐらいの小さな子どもを連れた、家族連れを呼び止め、写真を頼んだ。
 健太君は、私と鶴さんの間で、両足を開き、両手を真横に伸ばして、だいもんじ、といってポーズをとった。それを見て、カメラを構えてくれた父親の横で、子どもが、無邪気に同じポーズをとった。母親が、まあ、と笑った。私たちみんなも笑った。
アパートのベランダから、大文字を見て以来、一年半、私は、この山にお世話になった。健太君の地球儀では、針先の、小さな小さな点にしかならない、この場所が、私を受け入れてくれた。私は、身軽になった。大きく育て、子どもたちよ、そんなことまで言えそうだった。足をけがして、そのおかげで、翼を得たような気分だった。
「はい、とれました」
 写真には、春の予感を湛えた桜のつぼみの向こうに、大文字山が立っていた。ありがとう、大文字。さよなら。つぼみの紅が、火床の頬を、うっすらと染めていた。

 

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