小説

『大文字百景』今泉きいろ(『富嶽百景』太宰治)

 季節は過ぎていった。私はいくつかのアルバイトをしながら、少し前では、考えもつかかったような、ささやかで、慎ましい生活を続けた。大文字山へは相変わらず、たまに登った。大山さんや鶴さんとは、会うこともあったし、会わないこともあった。会ったら、少しぐらい会話をして、それだけだった。次第に、「はあ」以外の返答もできるようになっていった。
 春先、大山さんが、健太という名の、自分の孫を一緒に連れてきたことが、何度かあった。その日は、鶴さんも来ていた。山頂でちょっと話しただけなのに、まだ小学校に入る前と思われる健太君は、少年特有の無邪気さをもって、私と鶴さんに、もう数年来の友達であるかのように打ち解けた。
「ねえ、あの文字のとこ、行こうよ。ねえ」
送り火が点火される火床へ行こうと、自分のおじいちゃんというよりも、むしろ、私と鶴さんに提案するのである。私がしばし困惑していると、
「行ってきてやってください。私もしばらくここで休んだら行きますので。こいつは、父親と別居していてね、寂しいんですよ」
 大山さんは、いつもの優しい表情で、言った。私は、危なっかしい足取りで駆け出す少年を見て、どうしたらいいのか、途方に暮れた。見かねて、鶴さんが、私の服の袖を、ちょんと引っ張った。
「行きましょう。早くしないと置いて行かれますよ」
私は、歓声を上げつつ道を行く二人に、ふらふらついて行った。まるで腕白少年に引っ張られる、ちいさい犬にでもなった気分であった。
送り火が焚かれる火床に到着すると、少年は、辺りを見回して、
「あれ、どこにあるの? あの『大』って文字は?」
「ここだよ。ほら、このだんだんになっているところの一つ一つに、2本の石が置かれているでしょう。上の段から下の段へ、それを全部つなげたら、あの『大』の字になるんだよ」
鶴さんが答えると、少年は、納得できんとばかりに、口をすぼめた。
「えー、これがそうなの? そうは見えないけど」
「そうだよ」
「でも、文字、見えないよ。ただの階段じゃん」
 鶴さんは、しゃがんで、健太君の目を見た。
「ねえ、健太君、地球儀って見たことある?」
「うん。家に一つあるよ。お父さんが前に買ってくれたやつ」
「地球儀で見ると、国がどんな形をしているとか分かるけど、今こうしてその場に立っていても、それがどんな形かわかんないよね。そういうことだよ」
 鶴さんは、丁寧に説明した。少年は、なおも不満そうであったが、一応納得したようだった。
「じゃあ、今ぼくたちがいるのは、文字のどの辺なの?」
「えっと、どの辺だっけ、―」
鶴さんは、辺りを見回した。
「『大』の字の、右肩のところだよ」
 私が、教えてあげた。それまでずっと押し黙っていた私が、のっそり会話に入ってきたのを、少年は喜んだ。少年の犬にされつつあったことに、少しばかり卑屈な気持ちも手伝ってか、ふざけて、続けた。
「こうして僕たちがここに立っていたら、それは遠くから見たら、『大』じゃなくて、『犬』のように見えるかもしれないワン。なんて」

 

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