小説

『大文字百景』今泉きいろ(『富嶽百景』太宰治)

一通りはしゃいだ後で、後ろを振り返った子どもが、遠くを指さして、言った。
「あれ、もうあっちは消えかかっているよ」
 その子の視線の先には、遙か遠くに、小さく、途切れ途切れの、「大」の字が、あった。
「大文字山の方は、もうそろそろ終わりだね」
 父親らしき人が、子どもに答えた。
「なんだかあっちは、線香花火みたいだね。ちょろちょろって感じで」
 虚脱。子どもの声聞いて、私は、泣いた。浅ましいまでの嗚咽になった。遠く遠く、消えかかる大文字の火。楽しげに語らいながら公園の人たちがいなくなっても、三十過ぎのいい大人が、ベランダの欄干に頬杖突き、転がったビールの空き缶を足の裏でころころしながら、いつまでも涙が止まらなかった。社会人になってから、初めてでた涙だった。みじめだった。あんなわびしい「大」は、二度と見たくないと、思った。
 その晩は、朝まで酒飲んだ。涙を流した分だけ、いや、それ以上にがぶがぶ飲んだ。あかつき、体中泥になった気分で、昨日子どもがはしゃぎ駆け回っていた公園へと、降りていった。大文字山は、相変わらず、遠く、小さく見えるだけであったが、朝日を受けるその姿は、前日の夜とは、違った。風前の灯火でなく、「大」が、小さいながら、細い線で、はっきりと見えた。押しつぶされた山の斜面、健気で、頑なな姿だった。
 決めた。
 それからすぐに、私は会社を辞めた。

 一人には広すぎるアパートの部屋を引き払い、大文字のお膝元、銀閣寺町にある小さな木造アパートに引っ越した。心機一転、それまでの貯金と失業手当を切り崩しながら、新しい生活をしていこうと思った。
引っ越しは、あっという間だった。家財道具は、ほとんど、捨てた。わずかな家具と、布団と、本だけ持って、畳一部屋へ転がり込んだ。友人の車でそれらを運搬した。
「しかし、驚いたなあ」
友人は言った。
「何が?」
「だって、突然だったからな。一流企業で、これからってときに、いきなり仕事も辞めて、こんなところに引っ越すって言うんだから」
 この友人も同じ大学を、同じ時期に出た仲間だった。世間からすると、立派な企業に勤める、立派な会社員だった。たまに、一緒に酒を飲んでは、将来について、語り合った。
「うん。自分でも驚いた。でも、もう限界だった。一回、大きい夢とか、そんなもの捨てて、どこかで立ち止まらないといけないというか、そんな気がしたんだ。どうにかまあ、生きていくよ」
 そのつもりだった。
 荷物の搬入が終わって、ふと窓から外を見ると、そこに、「大」があった。大文字、えらいなあ、と思った。
 

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