小説

『大文字百景』今泉きいろ(『富嶽百景』太宰治)

 数ヶ月、休んだ。
 大文字山には、その頃、たまに登った。市街地は、観光客、勤め人、商売人、学生などが、狭い土地にたくさん暮らしていて、息苦しい。そんな京都盆地を見下ろしたくなると、登った。巨大なすり鉢の真ん中でごろごろとぶつかり合って、削りあい砕けていく胡麻のようになってしまうという恐怖に苛まれ、逃げるように、大文字へと向かった。
山登りを通して、知り合いが二人、できた。一人は鶴さん、そしてもう一人が、大山さん。
 ある日、登山道の途中、なんだか寒々しい木をみつけた。木の樹皮がはがされて、地面にその残骸が散らばっているのである。何の目的をもってか分からなかったが、冬を前にして、そのように身の皮剥がされた木を見るのは、良いものではなかった。
だしぬけに、その木の後ろで、茂みが、がさがさ、音をたてた。周章狼狽、私は熊でも出てくるのではないかと、逃げることも、身構えることもできず、凍り付いたように、その場から動けなかった。
茂みから、黒い足が、ぬっと出てきた。しかし、毛には覆われてない上に、その先には人間が履く靴が、ちょこんと、ついている。体の残りの部分が、勢い余って転がりこむよう、一気に、登山道へと飛び出してきた。登山服、黒いタイツに短いズボン、そして丸い顔、後ろにまとめた髪。人間の女性であった。
「あ痛たた」
 と言って、体から小枝や葉をはらいつつ、顔を上げた先方の前には、身動きがとれず、恐怖にすくんで立っている私がいた。相手も、決死の突入を敢行した先に、自分を慄然と見ている男がいるとは思っていなかったのか、驚いたように後ずさって、今度は後頭部を例の「裸の木」にうちつけた。
「あ痛たたたた」
「た」が多くなった、私が最初に思ったのは、そんな変なことだった。頭をさすりながら、女性は照れたように笑った。
「この先に、ほとんど知られていない、神社があるって聞いたんですけど、」
 言い訳でもするように、女性は、自分が今しがた、出てきた茂みの方を指さして、言った。
「いろいろ探し回っていたら、ちょっと迷っちゃったみたいでした」
 私はなおも、黙っていた。私は、その頃、見知らぬ人と話すと、突如として、ぞくぞくとした恐怖を感じることがあって、なるべく他人と話をしないようにしていたのであった。
 はあ、と、言った。それしか言えなかった。そんな私のそっけない態度に、相手も少し気まずい顔をして、一時の沈黙の後、所在なく辺りを見回した。自分が後頭部を打ち付けた相手が、なんだかみすぼらしい姿を曝しているのを見て、言った。
「なんだか、かわいそうな木ですね」
「はあ」
「これから寒くなるっていうのに、こんな姿じゃかわいそうですよ。服でも着せてあげたいものですね」
 そう言って、木肌の温度を確かめるように、そのつるつるした表皮を、手でなでた。その優しさに、私の恐怖も、少しとけた。自分の後頭部を打ち付けた相手をいたわるその手には、健気で、純粋で、何の見返りも求めない優しさが、こもっていた。山でしか、こんな、美しい愛情に出会えないと、思った。

 

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