小説

『燃えかす』太田早耶(『夏目漱石「夢十夜 第一夜」/花咲か爺さん』)

ここにいるのは俺とあの木だけだった。自分がいつからこの場所に立っているのか、俺には分からなくなっていた。一時間どころか、もう1日か1週間、もしかしたら10年だってここにいる気がした。気付けば世界は真っ白で、俺は自分の身体がどこまでも続いているような錯覚を覚えた。ふと見上げると、雪に覆われた景色の中に、一片の朱色が浮かんでいるのが目に入った。細い枝に小さな蕾がついていた。蕾はやがて開いて、かぐわしい香りを漂わせた。その香りが鼻に届くと同時に、椿の花は何の前触れもなく、つい、と落ちた。真っ白な雪の上に、鮮やかな色が舞い散った。俺は一歩踏み出そうとしたが、身体が凍り付いたように動かなかった。あるいは本当に凍っていたのかもしれない。手も足も動かず、雪の中に突っ立っていると、また蕾が芽吹いた。みるみるうちに花が咲き、真っ赤な花弁をのぞかせたかと思うと、美しさの絶頂に達した瞬間、そのまま息絶えるように雪の上に落ちていった。雪が降りしきる中、椿は次々と咲いては散った。落ちるのが目的であるかのようだった。散った花の上にも雪が積もっていった。風が吹いて、赤と白のきらきらした塵が視界を覆い尽くした。吹雪の向こうに椿の木が見えた。ぽとり、とまた花が落ちた。思わず声がこぼれた。「姉さん、俺がほしいものは」雪と花弁が宙を舞っていた。枝が小さく震え、そこに再び生命の兆しが見えた。俺は手を差し伸ばした。

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