小説

『僕の前の道』吉岡幸一(『道程(詩)・高村光太郎(著者)』)

 左の道から柴犬を連れた身なりの良い老夫婦が歩いてきた。女はブランド物の服を着て、バックを持っていた。男はオーダーメイドのスーツを着て、よく磨かれた革靴を履き、犬のリードを握っていた。
「左の道に進んだ方がいいよ。そうすればお金に苦労することもなく幸せに暮らせるから」と、男が言うと隣の女が続けて「家族も持てるし、家でだってもてるのよ。あなたが大好きな絵だって、休みの日に趣味として描くことだってできるんだから、迷うことなんてないでしょう。こっちの道においでよ」
 男は未来の青年であり、女はいまの恋人の未来であることはすぐにわかった。
「満足のいく絵は描けたんですか。納得のいく作品は描けたんですか」
「それは無理だよ。あくまで趣味だから、真剣に人生のすべてをかけて描いた本物の絵描きの絵には叶わないよ」
「じゃ、なんのために絵を描いているのですか」
「なんのためって聞くのかい。それは楽しみのために決まっているじゃないか。趣味なんだからさ」
「それって、本当に幸せなんですか」
「幸せだよ。僕が人生を捧げて絵を描いたって、たどり着けるところなんてたかが知れているよ。ピカソやゴッホにはなれない。それなら楽しく趣味で描いて、他の仕事をして稼いだ方がましさ」
 隣の女は男の言葉を引き取るように「平凡な絵を描くより、恋人を幸せにするほうが素敵なことじゃないの。絵は才能のある他の人にまかせて、あなたは側にいる恋人を幸せにするべきよ」と、当たり前のことを言うように言った。
 青年がY字の道を描いている絵を観て腕を組んでいると、左側の道からきた未来のふたりの姿は消えた。

1 2 3 4 5 6 7 8 9