小説

『僕の前の道』吉岡幸一(『道程(詩)・高村光太郎(著者)』)

 まっすぐな一本道の絵を描いている青年がいた。海沿いの道のまん中に腰かけて、朝の早い時間から来た道を見つめながら、一筆一筆キャンバスに絵具をのせていた。
 道はやっと人が一人歩けるほどの幅で、細くて舗装されていない。両脇には一度も人が踏み入れたことがないほどの草が生えていた。草が大量に生えた内陸側には果てのない松並木があり、海側は草地を抜けると弓型の砂浜が広がっていた。
 青年が歩いてきた道は青年の他はだれも歩いていなかった。歩いてこの場所に来るときも、歩いてきた道を描いているときも、人だけでなく猫の姿を見ることもなかった。
 誰かと一緒にこの道を歩いて来たかった、と青年は思ったが一人で来たことに後悔はなかった。夜明けから薄らと青みがかっていく空を眺めながら、一歩一歩道を踏みしめて進んでいくことは案外心地よかった。
 公務員の父と中学教師の母の間に生まれた青年がこれまでの人生を振り返ると、今朝歩いてきた道と重なるのだった。ときどき折れ曲がったり、登りや下りがあったりするが、ほとんどがなだらかな道で歩くことに苦労することがなかった。
「ささやかな幸福の道」とでも言えばいいのだろうか。だれもが羨ましがるような出来事もなく、だれもが蔑むような事件もない人生だったが、これで良いと青年は思っていた。平凡の中の平凡に勝るものはない、と確信すらして、これまでひたすら波をたてることなく、真面目に歩んできたのだった。

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