小説

『僕の前の道』吉岡幸一(『道程(詩)・高村光太郎(著者)』)

 青年は振り返った道を描いた。まっすぐな道を描いた。舗装されていない道には小石はあるが、道を遮るほどの大きな石はない。踏み固められた道は、もしかしたら誰かがすでに歩いた道なのだろうか。誰かが作った道を青年は楽をして歩いてきただけだろうか。
 遠くから猫の鳴き声が聞こえて来るが姿は見えない。足元をみれば蟻が長い列になって進んでいる。バッタの足をみんなで運んでいる。見上げれば綿菓子のようにまっ白な雲が形を変えながら空を流れていく。地を撫でるような波音が聞こえ、松の葉がざわめく音が響いている。
「僕の後ろに道は出来る」
 高村光太郎の詩『道程』の一節を口ずさみ、青年は描いた絵と歩いてきた実際の道を見比べた。実際に見える道と違って描いた絵はなんと薄っぺらいのだろう、と青年は拳で膝を叩く。
「僕の前に道はない」
 青年はまた高村光太郎の『道程』の詩の一節を口ずさむ。これから道を切り開いていくことに漠然とした不安を抱いているわけではない。道を切り開いていくという感覚が青年には乏しかった。来た道を振り返り、来た道の絵を描いている青年は、これから向かう方向に背を向けていた。

 絵を描き終えて、ようやくこれから先に続く道を眺めた。『道程』のように、僕の前に道はないということはなかった。目の前に太くしっかりとした道が二本Y字になって続いていた。
 右の道、左の道に分かれている場所で、青年はどちらの道か選ぶことが出来ず、振り返って来た道に囚われていたのであった。

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