小説

『僕の前の道』吉岡幸一(『道程(詩)・高村光太郎(著者)』)

 どこか見たことのあるまなざし。老人の顔をよく見ると、青年は軽い悲鳴をあげた。それは青年自身が年老いた姿に他ならなかった。
「そんな恰好をして幸せだというんですか」
 目の前の老人が間違いなく未来の自分だとわかっていても、青年ははじめて会う人に対するように丁寧に話した。
「貧しさがなんだっていうんだ。芸術に人生を捧げてきた幸福に比べると、そんなことはなんでもないことだよ。それとも無理して、したくもない仕事をして、稼いで、贅沢したほうが幸せな人生だとでもいうのかい」
「それは僕だって好きな絵を描いて暮らしたいけど、そんなに貧しく生きなくてはならないなんて……」
「食べていければそれでいいじゃないか。私は絵に人生を捧げたおかげで、結婚することも子供を持つことも家を建てることもできなかった。でも何ひとつ後悔していない。たとえ描いた絵が評価されなくて、生涯一枚も売れなかったとしてもな。絵を描いて生きていくことができた。それだけで十分なんだよ」
「僕は絵描きとして成功しないんですね」
「俗世間の成功という意味でなら、そうだね。でも私はそんな成功がなくても満足だったよ」
 青年の手を引いて立ち上がらせると、老人は右の道に引っ張っていこうとしたが、か弱い老人の力では動かせなかった。
「絵描きとして生きていくつもりはないのか」
 怪訝そうに言う老人に首をふると、青年は考え込むように俯いた。しばらくして地面から顔をあげると、老人の姿はなくなっていた。

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