小説

『ひとつくらいは手を貸そう』有栖れの(『天狗の羽団扇』)

 そして、《日常》が始まる。
 科目教師の声は喧騒にかき消され、黒板に浮かぶ白い文字だけが辛うじて学びを主張している。
 荒くれた集団に小突き回される生徒を、去年と同じように誰もが見て見ぬふりをした。薄情な少年は、新たな標的となってしまった生徒と目が合わないよう、唇を噛みしめて俯いていた。

                                                 
 下校中に通りがかった体育館そばで、柔道部の顧問――少年の担任でもある――と教頭が立ち話をしているのを見かけた。
「ああ、このまま何事もなく進めば、我々は県大会どころか全国にだって行けますよ!」
「素晴らしい自信をお持ちだ。私も是非同じ光景を見たいものです」
 そのために必要なものがあれば工面しましょう、と教頭は綺麗に微笑んだ。
 顧問は薄らと品のない笑いを浮かべる。
「そういえば教頭先生は相撲がお好きだとか」
「そうなんです、最近はご無沙汰してますがね。しかし柔道も好きですよ。自らの肉体一つを頼みに、心身を強く鍛えるという点においては同じでしょう」
「その通りですよ。いやぁ、よい理解者が赴任してくださって嬉しいです。ひとつよろしくお願いしますよ」
「彼らの一番の理解者は顧問であり、担任でもあるあなたでしょう。このような強豪校に来ることができて喜ばしいことです。よき結果を期待していますよ」
 初夏の風が、開け放たれた大扉からなだれるように吹き込み駆け抜けてゆく。ふと、体育館の中で、にやにやと笑みを浮かべて練習を続ける部員たちが目に入り、少年は慌てて帰路へ目を戻す。
 そして、この息の詰まりそうな閉塞空間が変わることはないのだと、静かに俯いて早足でその場を去った。
 いつしか、窓際の席にいたはずの少年の友人の一人が、登校しなくなっていた。

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