小説

『ひとつくらいは手を貸そう』有栖れの(『天狗の羽団扇』)

「ありがとう、ございました」
 本当はもっと違うことも言うつもりだった。
 あの時、自分の代わりに刺されたのは誰だったのか。自分はどうやって帰ってきたのか。誰が彼らを通報したのか。顧問であったあの男には何があったのか。これからあなたはどうするのか。
 でも、幾星霜を経た目がこちらに降り注がれた瞬間、もしそんなことを訊いたら最後何も残らなくなってしまいそうな気がして。
 少年は無難に、一番伝えたかった言葉だけを口に乗せるにとどめた。

「ああ、」
 教頭の瞳が煌めく。とびきり楽し気に、紅い頬と唇がきゅう、と吊り上がる。
 唐突に頭に浮かんだ、鼻高々、という言葉がその顔面にも雰囲気にもよく似合っていた。
「気をつけて帰りなさい」

 少年はぺこりと頭を下げて、踵を返す。
 そして、教室で待ちあわせている――また登校し始めるようになった友人のもとへ、一目散にかけだした。
 一度は見捨ててしまった彼と、前のように何の気負いもなく笑いあえるかはまだ分からない。手始めに、夏休みの課題を一緒にやらないかと誘ってみるのだ。

 
 裏庭のヤツデがゆらゆらと揺れる。
 勇気を奮い起こす少年の背を、風がゆっくりと追っていった。

1 2 3 4 5 6 7