小説

『彼女の雨傘』元森葵(『笠地蔵』)

「ごめんね。家出る時は傘持っていたんだけど、電車に置き忘れちゃって」
「まじか。傘ってなくすよね。俺は鞄に入れっぱなしだったからさ」
 課題や就職先の話などをしながら、そのまま二人でバスに揺られ、電車に乗った。
 ターミナル駅に着くと別路線に乗り換えになる。別れ際に玲司は緑に傘を渡した。
「うちは駅のすぐ目の前だから。よかったら傘持って行きなよ」
「え、悪いよ。もう講義もないし。いつ返せるか――」
「大丈夫だよ。他にも傘持っているし、困らないから」
「ありがとう。じゃあ今度何か奢らせてね」
「気にしなくていいのに」
 そう言いながら、玲司は話す口実ができたことをどこか喜んでいた。親切心で声をかけたつもりだったが、帰り道の一時で、緑のことを――綺麗な歯並びの笑顔やはきはきとした話し方を――良いなと思ったのは間違いなかった。
 幸運なことに、それは彼女の方も同じだったようだ。
 夏休み中にばったり構内で会うと、宣言通りアイスカフェラテを奢ってくれた。緑はエスプレッソ・ショットを追加した方が美味しいと言い、その飲み方は玲司にとっても定番になった。
 その時彼女は傘を携帯しておらず、返却は次に持ち越された。ただ、そんな形で何度か会ううちに付き合うことになった。
 もう緑に傘を返してもらう必要はなかった。

   ◇

 あれから二年が過ぎても、玲司(れいじ)と緑(みどり)は続いていた。玲司がこんなに長く付き合ったのは初めてで、気が合うのだと思った。同僚に誘われて密かに他の女の子達との飲み会に参加する事もあったが、それは遊びにすぎなかった。
 しかし、一昨日の日曜に珍しく気まずい雰囲気になってしまった。
 冷静に考えると、玲司は自分が悪かったのだと思う。とにかく平日は仕事が忙しくて、精神的にも疲れていた。
 休日くらいゆっくり寝ていたいと、のらりくらりと緑の話を聞き流しながら、美術展に行く約束も反故にしたのだ。

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