小説

『彼女の雨傘』元森葵(『笠地蔵』)

 日曜も雨が降っていたかもしれない。気が滅入るような曇り空だった。
 緑はいつの間にか不機嫌になって、早々と出て行ってしまった。
 スマホのメッセージアプリを開き、緑に連絡すべきか迷った。
 二日前に送ったメッセージに返信がないままなのだ。玲司は時々返信を忘れたが、緑がそんなに間を空けることはなかった。怒っているのだろう。さらに自分からしつこく送るのは避けたかった。
 本当は電話で話したかったが、直接拒否される想像をすると怖いし面倒だ。
 無言で傘を突き返すという彼女のやり方にも腹が立った。
 反省はしてみたが、そんなに怒らせるようなことだったか、とも思う。彼女は普段は大らかで、一人で怒り続けるようなタイプではないと思っていた。
 いや、だからこそ緑は本気なのかもしれない――
 そんな逡巡の間に玲司は眠りに就いていた。

   ◇

 さらに数日が過ぎても緑からの連絡はなかった。
玲司はようやく仕事が一段落つき、久しぶりに自販機ではなく少し離れたコーヒースタンドでアイスカフェラテを買った。追加のエスプレッソショットを頼む時に緑の顔が思い浮かぶ。
 十八時になると、上司は結婚記念日だからともう帰るらしい。「雨宮(あまみや)くんも早く帰りなよ」と言って出て行った。こんなに早く上がれることなど滅多にない。玲司もそそくさと退社した。
 久しぶりに人の多い地下鉄の階段を抜けると雨が降っていた。夕立だろうか。傘は持っていないし、この辺りはなかなかタクシーも捕まらない。せっかく早く上がれたのに。どうせなら飲みに行けば良かったかなと、ぼんやりと軒先で立ち止まった。
 帰宅中の人々がどんどんと早足で過ぎ去っていく。目の前で次々と開かれる傘を見ていると、どうやら天気予報を聞き逃したのは自分だけらしい。一人置いて行かれたような気分になった。早く上司のような余裕が欲しいと思う。
 家まで走るかと気合を入れた時、突然「お兄さん」と肩を叩かれた。振り向くと見知らぬ老婦が立っている。
「傘持っていないの?よかったらこれ使って。私は主人のがあるから」
 そう言って、翡翠の指輪が目立つ手で、ビニル傘をこちらに差し出した。
「え。いや悪いですよ。その辺で買います」
「いいのよ。こちらもどうせビニル傘なんだし。うちにも沢山あるの」
「はあ。ありがとうございます」

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