小説

『彼女の雨傘』元森葵(『笠地蔵』)

「こんなお菓子まで入れてくれたんだね。優しそうなおばあさんだったから。かえって悪かったかなあ」
「――そんなことないよ。俺もこの前傘を忘れて、最寄り駅に着いたら土砂降りでさ。どうしようと思ったら、通りがかりのおばあちゃんが傘を貸してくれたんだ。自分は旦那さんの傘があるからって。正直、最初は知らない人だから驚いたけど――案外優しい人もいるものだなって、嬉しかったんだよね」
 話を聞くと、緑は意外そうな表情を見せてから微笑んだ。
「ふふ、最初にこの傘を貸してくれたのは玲司くんじゃない。覚えていないの?」
「もちろん覚えているよ」
 すべてこの傘から始まったのだ。改めて彼女を見つめた。
「この先もさ、ずっと緑が持っていてよ」
 緑は袋を鼻先辺りまで軽く持ち上げてみせ、「うん、ありがとう」と応じた。
 玲司は思い切って続けた。
「だからさ、そろそろ結婚しませんか――」

   ◇

 突然頭に何かが触れた。それは冷たく、つむじから側頭部まで流れ落ち、雨が降ってきたのだと気付く。あっという間に手や肩も次々と大粒の滴に打たれている。緑(みどり)は鞄から濃紺の折りたたみ傘を取り出した。
 雨の時に街路樹やアスファルトから立ちこめるような独特の香り――こういうのをペトリコールと呼ぶんだっけ。その言葉を教えてくれた玲司の顔が思い浮かぶ。
 彼の家に向かう途中だった。仕事が忙し過ぎるのか、最近の玲司には何かしっくりこない感じがある。もし今後別れることになったら、しばらくは雨が降ると玲司を思い出してしまうのだろうか。その状況を想像すると胸が苦しくなる。嫌な予感が当たりませんように。
 前方に、手をかざしながら雨を避ける白髪の女性が目に入った。薬指の大きな翡翠の指輪が雨に打たれている。思わず歩みを速めて、その肩をそっと叩く。
「よかったら、傘使いませんか。私はすぐそこのマンションなので」
 そう言いながら、相手を自分の傘に引き入れた。
「まあ、ありがとうございます。どちらに返せば――」
「別に返さなくても大丈夫ですけど――もし、通ることがあれば、その道を入った灰色のマンションの二〇一号室です」
 緑は斜め先の脇道を指さした。
「分かりました。ありがとうございます。助かります」
 そうして傘を渡すと同時に、一瞬の後悔が頭をよぎった。使い古しといえ、玲司にもらった傘だ。知らない人に渡して良いのか。返さなくてもなどと言ってしまったが、本当は返してくれることを願っている。その思いとは裏腹に緑は軽く微笑み、マンションへと駆けた。

1 2 3 4 5 6