小説

『彼女の雨傘』元森葵(『笠地蔵』)

「え。いや悪いですよ。その辺で買います」
「いいのよ。こちらもどうせビニル傘なんだし。うちにも沢山あるの」
「はあ。ありがとうございます」
 半ば押し付けられたような傘をさして、玲司は歩き出した。
 今時こんなに親切な人もいるんだなと思う。
 いや、少し前なら、自分もすぐに傘を差し出していただろう。いつの間にか余裕がなくなっていたのだと気付いた。

 ◇

 玲司(れいじ)はベッドに転がって延々とスマホを弄っていた。ようやく仕事が落ち着き、久しぶりのゆったりとした時間。しかし、先送りにしていた事を考えなければいけない。考えても仕方のない話かもしれないが――
 このまま緑と終わってしまっていいのか。
 もっと合う人が現れることなどあるのだろうか。
「しつこくごめん。やっぱりもう一度話せないかな」
 結局、再びメッセージを送った。ただ悩んでいるよりも、とにかく緑(みどり)に会いたいと思った。これで返信がなかったらあきらめるしかない。気を紛らわそうとテレビを付けた。
 思いのほか早くピコンと通知が鳴り、その内容に安堵する。
「玲司くん、こっちこそ大変な時にごめんね。ちょっと頭冷やしてた」
 土曜に会う約束をして、美術展の付近でカジュアルめのイタリアンを予約した。
 玲司はあの傘の入った紙袋をそのまま持って来た。緑はもう怒っていないはずだ。再びこれを受け取ってくれるだろうか。
「これさ」
 店で注文を終えてすぐ、向かい合う彼女に紙袋を差し出した。緑は怪訝な顔で「なに?」と言い、中を見る。
「あ、傘戻ってきていたんだ」
 それは予想外の反応だった。
「――戻ってきていた?」
「先週、玲司くんの家に行った時ね。着く頃に雨が降り出したの。ちょうど傍を歩いていた人が傘を持っていないみたいだったから、これ貸してあげたんだ」
「えっ」
「ごめん。もらった傘なのに、勝手に貸したりして。それに、どこに返したら良いか聞かれたから、玲司くんの家の部屋番号まで教えちゃって――」
 そういうことだったのか。玲司はようやく自分の早とちりを理解した。
「何だ、俺はてっきり――」
「え?」
「いや、いいんだ」
 緑は袋の中からカードやクッキーを手に取った。

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