小説

『彼女の雨傘』元森葵(『笠地蔵』)

 大学最後の夏休みが迫っていた頃だ。そう、確か長い梅雨が明けて夏らしい晴天が続いた日。
 玲司は課題を仕上げるため遅くまで大学構内の図書館にいた。前期の試験期間中で、他にも残っている学生がちらほら見える。静寂より微かな雑音がありがたかった。
空腹と眠気がピークを過ぎた頃、何とか目途が付いた。退館ゲートを過ぎると、どんよりした室内とは一変した澄んだ空気に目が覚める。無意識のうちに半袖から伸びた腕をさすっていた。
いつの間にか雨が降り出している。
水分を含んだ樹々や地面の独特な香り――こういうのをペトリコールと呼ぶんだっけ。何かの本で読んだ言葉を思い出した。ギリシャ語で「石のエッセンス」の意味で、雨粒が土壌などに当たって生じる匂いを指す。
 図書館の入り口には女子学生が外を向いて佇んでいた。涼し気な白のノースリーブにベージュのストレートパンツ、背中まで垂らした柔らかそうな黒髪。同じクラスを受講している日(ひ)高(だか)緑(みどり)だと気付く。雨の中を進むべきか、迷っているようだった。ここからバス停まで数分かかる。
何となく顔は知っているものの、話をしたことはなかった。だが、この場で無視して通り過ぎるのも感じが悪いだろうと思った。横に並んで声をかける。
「日高さん。俺、人類学で一緒の雨宮(あまみや)」
「ああ、どうも」
 背が低めの緑は、上目遣いで見上げて会釈をした。玲司はバッグから取り出していた折りたたみ傘を広げる。
「急に降ってきたね。傘ないなら、入っていく?」
「いいんですか」
「バスだよね。俺もちょうど帰るところだから」
「ありがとう。じゃあお言葉に甘えて」
 小さな傘に二人がまともに入るのは難しく、玲司の肩は傘のつゆ先を伝う雨垂れですぐに湿った。

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