小説

『凡人』山賀忠行(『杜子春』)

 出産当日、病院の待合室でまだかまだかと待つ。組んだ手は汗ばみ、心臓は音が周りに漏れてしまいそうなほどの強収縮を繰り返す。
「生まれましたよ。女の子」
 看護師が笑顔で言った。案内され妻のもとに行くと妻は涙を流し喜んでいた。そんな姿を見て私も自然と涙が溢れてきた。
 父親になるんだ。
 武者震いのようなものが走った。抱かれた赤ん坊の顔を見る。目は閉じたままでしわくちゃな顔。
 かわいいなあ。
 幸福を噛み締め気持ちが昂る。その時純粋無垢と四字熟語が脳裏にふわりと浮かんだ。その通りだ。神聖なる子宮から今さっき出たばかり。これほどピッタリな場面はないだろう。羊水で湿った髪は昔見たテレビの1シーンを呼び起こした。川の源流を探るドキュメンタリー。道もない山奥の掌で止められそうな細い水の流れ。そこからさらに上流へ辿る。人の侵入を拒むような険しい傾斜を何時間も進みようやくたどり着いた岩場。裂孔から染みだしぽつりぽつりと滴る清らかな最初の一滴。
 この瞬間だ。
 自然と生命の神秘がリンクし心が震えた。
 しかし何かが引っかかる。昇天してしまいそうなほど気持ちが昂ろうが後頭部をつつく棘のようなものを感じる。それがなぜかは分からない。
 数週間経つと徐々に明らかになっていく。初めは必死に否認したが限界を迎えた。原因は奥野隆志としての記憶。正体は
 この人はこの人なのだろうか。
 という病的な懐疑であった。
 もしかしたらこの人は昔は別人だったのかもしれない。
 疑念はそこら中に向けられた。信頼していた編集長も気心知れた作家仲間も私生活での親友も……妻も例外ではなかった。
 ――妻は妻自身なのだろうか……誰か別の人間が妻の体に入り込んだ後なのでは……私のように……
 根拠はなくてもあってほしくないと思う相手ほど悪く考えてしまう。彼女のちょっとした所作、今まで何千回も癒しをくれた優しい笑顔ですら
 ――この顔は……誰の顔なのか……
 と疑ってしまう。それだけではない。

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