小説

『凡人』山賀忠行(『杜子春』)

 二年後、ライターとしての腕を買われた私は馴染みの編集者の勧めで有名な小説家と共著という形でエッセイを出版した。これが好調で物書きとして自信をつけた私は長編小説を書くようになった。四作品目で新人賞を獲得し私は小説家に転向した。売り上げは良くその後も順調に小説を出し続けた。五冊目の小説は文学賞を獲得しドラマ化された。主演俳優の名演技のおかげもありドラマは売れ私の名前は一躍世間に広まった。テレビ、ラジオ出演の声もかかるようになり金銭的な収入も大幅に上がった。これを機に都心の庭付きの三階建を購入し安アパートから引っ越した。一人で暮らすには広すぎるくらいの家であった。場所は世間から高級住宅街といわれる閑静な地区。近所には緑豊かな広い公園もJRの駅もある。
 引っ越しを決めた時表札をどうしようかと一度考えたが準備や仕事のゴタゴタでいつのまにか忘れてしまった。行方は分からない。

 人生は順風満帆であった。小説を出すと毎回帯に誰もが知るような作家や芸能人の推薦文が載り、新聞にはでかでかとした広告。ネット記事や雑誌の取材。ドラマ化や映画化の打ち合わせ。ファンレターの山。駅前の大型書店に行けば入口すぐに専用ブース。背の高い棚には自著だけが表紙を前にして面陳列されており、手前の膝ほどの高さの台には平積みされている。視界が自分の本で埋まるのは気分が良い。公式ポスターだけでなく平積みの本の間からは棒が生えており先には作品の魅力が手書きでびっしりと書かれた手作りのカラフルなポップ。もちろん口座残高はうなぎのぼり。出した小説の数自体はまだそんなに多くないが肩書は既にベストセラー作家。
私生活では四十の誕生日に友人の紹介で出会った十歳年下の弁護士の女性と結婚した。代々続く弁護士事務所の一人娘。なかなかの美人でおとなしい性格。好みに完全一致していた。彼女の要望で親族と親しい友人だけの小さな結婚式を挙げた。派手ではないがこれはこれで良い。無駄な気を使う必要もなく心から式を味わうことができた。忍びのハワイへの新婚旅行。間もなく妻の妊娠が発覚した。とろけてしまいそうな甘い新婚生活を送りながら子の誕生を待った。

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