小説

『凡人』山賀忠行(『杜子春』)

 アパートの玄関扉の視線の高さには横向きの長方形の透明なビニールポケットが接着されている。そこにクレジットカードサイズの薄い表札が収まっている。右側が開いておりそこからスライドして入れたり出したりする簡素な作りだ。
 密閉されていないせいで汚れが溜まりやすい。放っておくとどんどん黒ずんでしまう。
 これはさすがにみっともないな。
 今まで放置していたがある日の日曜日の朝、私は掃除をしようと濡れ雑巾片手に表札を引き抜いた。
 おや……
 裏には田辺という文字があった。表に書かれた私の苗字である奥野と同じ大きさで同じフォントの黒い漢字二字。
 おかしいな。
 前の住人が田辺という人物だったという説が思いつく。だけど表札の使いまわしなんて聞いたことがない。築四十年の安アパートの表札なんて薄いプラスチックプレート。ケチるほどのものでもない。こんな安物は既に使用されたプレートの裏側にわざわざ字を入れてもらうより新しく作った方が手間もかからないし安上がりだろう。
 一応隣人に廊下で会ったついでに表札を見せ聞いてみる。
「田辺さんってご存知ですか」
「知りませんけど。どうしたんですかそれ」
「裏側に書かれていましてね」
「そんなこともあるんですね」
 彼も一応自分の表札を取り外し裏返したが真っ白。特に会話も膨らまず終わった。
 偶然か何かの手違いか、ただそれだけのこと。
 それ以上思考することはなかった。心の奥に小さなしこりを感じた気もしたが昼飯の即席麺を食べている間になくなった。

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