小説

『凡人』山賀忠行(『杜子春』)

 その時、スマホが鳴った。通知欄には知らない名前。指紋認証で開いたが中身は全く見覚えのないものであった。早足で部屋に戻りスマホにかじりつく。メール、写真、SNS、電話帳……全て知らない。部屋を見回すと家具は変わっていない。少し安心したが引き出しの中身は全て変わっていた。書類も文具も食器も。部屋を隅々まで確認した。分かったことは1つだけ。この部屋は田辺大樹のものということ。
 間違えて他人の部屋に入ったのか……万が一ばれたら不法侵入で捕まるのでは……
 部屋を飛び出したが行く当てがない。
 おかしくなったのか……

 
 スマホ内の写真と隣人、管理人と話した結果確信した。私は田辺になった。顔も体つきも全く変わらないが別人。本能は受け入れないが状況証拠がそう言っている。この日は頭の整理がつかず何もできなかった。だが一晩寝て起きると生きていくには仕方がないとなぜか踏ん切りがつき、メッセージ履歴や近所の人の話、家にある書類などを組み合わせ
 田辺大樹三十歳独身、職業フリーライター、東京出身、恋人無し……
 と判明した情報をメモ帳に書きそれを覚えることを始めた。
 俺はいったい何をしているのだろう。
 不思議な気持ちになりながらであったが徐々に違和感は減っていった。しかも一週間ほどで自動的に記憶が補填されるようになった。
 つまり例えば知らない友人と会った時。目が合った瞬間は彼のことが分からない。しかし一秒もしないうちに田辺大樹という人物が持っていたであろうその友人についての記憶がまるで宙からダウンロードしたかのように頭にふつふつと浮かび上がり定着する。そんなことが起こるようになった。
 仕事も依頼のメールを受けた時はどうしようと困惑したがパソコンの前に座ると自然と頭は回転し始め、流暢に文字を入力し問題なくこなすことができた。
 一か月もすると違和感を覚えることはなくなった。演じているという意識もゼロ。田辺大樹になりきったのだ。それどころか自分が田辺大樹であるということを疑う行為に煩わしさを覚えるようになった。
 奥野としての記憶を失うことはなかった。思い出そうと思えば思い出せる。しかし時が経つにつれ思い出そうと思う機会自体が減っていった。
 私は田辺大樹として平穏な日常を取り戻した。

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