小説

『吾輩の猫である』裏木戸夕暮(『吾輩は猫である』夏目漱石)

 老人は鷹揚に笑っていた。紬の着物を着て、茶目っ気のある目元をしていて、体は小柄で・・・

「きゃあああ!」
 悲鳴で正気に還る。
 台所へ飛び込むと、母が腰を抜かして土間に座り込んでいる。
「み、水甕の中に、ね、猫が」
 拓朗は水甕を覗いた。
(あっ)
 水甕の中は茫洋と広がる闇の奥に、遠く光が射していて、甕の底が丸窓のように・・
(あの抜け穴だ)
 甕の底は垣根の抜け穴に繋がっていた。その穴に向かって歩いていく猫の後ろ姿。
 とっ、とっ、とっ。くるりと振り向く。
「にゃーあ」
 とっ、とっ、とっ。
 行き先に縁側が見える。小柄な老人が微笑んでいる。

 拓朗は夢から覚めた心地で顔を引き上げた。
「ね、猫は?」
「居ないよ」
「え?いつの間に外へ出たのかしら・・・くしゅん!」
 へたり込んでいる母親に手を伸ばす。
「アレルギー?」
「ありがとう。毛がね・・よっこらしょ」
「はは、婆さんみたい」
「何言ってんの、婆さんよ。拓朗がもう大人なんだから」
 母親がふっと笑った。
「手なんか、久しぶりに握ったわね」

 父親が駆け付けた。何処へ顔を突っ込んでいたのか埃だらけで、髪が真っ白になっていた。
 その顔は額縁の中の曽祖父によく似ていた。

 ふと父親の言葉が浮かんだ。「もうどこでもいい」は「好きなところへ行け」とも受け取れる。
 それは自分次第だ。
(曾祖父さん、そも貴君は何者たるや、だったね)
 心の内で答える。
 俺は何者でも無い。だから何にでもなれる。

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