小説

『吾輩の猫である』裏木戸夕暮(『吾輩は猫である』夏目漱石)

 晩春の夜風。
 トコトコ歩く猫一匹。
 てくてく歩く青年一人。
 誰にも会わない。夜道は拓朗と猫一匹の為に続いていた。
 絵か幻の中を歩くような不思議な感覚だった。
 猫は時折ひとのような顔で振り向き、付いて来る拓朗を見ていた。

 猫がにゃーあと長く鳴いた。垣根の下に穴が空いていて、するりと抜けていく。
 拓朗も四つ足になって後に続くと・・

「あれ」

 気づくと自宅のベッドの上だった。
「夢?」

 その後も老人は
《己の欲する道を歩むべし》
《他人の意見を聞いて失敗すると相手を責めることになる》
《失敗した者を敗北者と呼ぶのは誤りである。己は何事も成さず他人を誹る者が最も愚かである》
《貴君も若人なれば、否、老人であれ失敗を恥じるべからず》
《勝者、敗者の双方に与えられる称号は挑戦者である》
などと手紙越しに説教を垂れる。
「お前の飼い主、変わってるな」
 猫はどってりと部屋の真ん中に寝そべったままにゃあと無く。
 郵便屋の役割を心得ているのか、近頃は毎日のようにやって来る。お世辞にも美猫とは云えない、太々しい面構え。
「お前も変な猫だなぁ」
「ふぐー」
「怒んなよ・・」

 季節が移ろい夏になった。部屋を密封してエアコンをガンガン掛けたい所だが、猫が気になってエアコンを封印。窓を全開にして扇風機で暑さを凌ぐ。蝉の声が大きいと思ったら網戸に張り付かれていてびっくりする。
 ある日
「拓朗」
と、父に呼ばれた。
「母さんから聞いただろう。田舎の家。明日行かないか」
 久しぶりに聞く父の声は少し枯れている。
「いいよ」
 素直な返事が出た。

 当日、車中では母親ばかりが話していた。三人で出かけるのは久しぶりだとか、水筒にお茶を入れてきたとか、何気ない言葉を言うのにも緊張していた。そうさせている自分の不甲斐なさと、放置する父親の鈍感さが気詰まりで、拓朗は窓の外を見る。
 母親の一人語りは続く。
「雰囲気のあるいいお家なのよ。お父さんのお祖父さんが建てたから築何年かしら」
「お父さんの両親は早くに亡くなったから、結婚の報告はお祖父さんにしたの。あなたが生まれる前に亡くなったけど」
「面白い人だったわ。色んなお仕事をしたんですって。肥料屋さんとか燃料屋さんとか。最後は何だったかしら」
「海運だ」
と父がぽつり。

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