小説

『吾輩の猫である』裏木戸夕暮(『吾輩は猫である』夏目漱石)

 両親が出勤した後、無人のキッチンで朝食をとる。予備校から帰宅すると冷蔵庫の中の夕食を取り出して部屋に篭る。
 ある時、母親が電話で話すのを聞いた。
「一人っ子で良かったわ。じゃないとここまで面倒見られないわよ」
 父親は開業医ではなく勤務医だ。家に金が有り余っている訳では無い。母も共働きで家計を支えているからこそ、拓朗は医学部を目指す高額な予備校に通うことが出来る。感謝と閉塞感で息苦しい。
 勉強のテクニックだけが身についていく自分が苛立たしかった。

 そんな拓朗の気分にお構いなしに猫はやって来て、気ままに過ごして自由に帰る。
「お前はいいなぁ。・・ん?何だこれ」

《我が家の猫が懇意にして頂いている様子、感謝申し上げる。何か粗相を致しましたらお知らせ下されたし》

 ある晩、猫の首輪に手紙が付いていた。
 細く切った和紙に墨文字で書いてある。
「何処の誰かは書いてないな」
 拓朗は同じ紙に返事を書いた。
《とてもお利口な猫ちゃんですからご心配なく》
「これでいいか」
 紙切れを首輪に結びつけると、猫はにゃあと鳴いて帰って行った。

 次に来た時は
《些少乍おやつ代としてお納めください》
と紙幣が添えられていた。
《お気遣いなく》
と書いて返したが、聖徳太子の千円札なんてあるのも知らなかった。
「お前の飼い主、一体幾つ?」
 返事は
「にゃあ」

「拓ちゃん」
 夜中に台所に行くと珍しく母親とかち合った。
「・・・最近は、お部屋でラジオでも聴いてるの?」
 おずおずと話しかけてくる。猫に話しかけている声を聞かれたなと察し、
「動画」と答えた。
「あ、動画・・そうね、最近の子はラジオなんか聴かないわよね」
 母親はコップに水を汲んで錠剤を飲み込む。
「薬?」
と聞くと
「ちょっとね、胃もたれがしたから。大丈夫よ」
とぎこちない笑顔を作った。話すのは久しぶりだ。
「あのね。お父さんが、今度田舎の家を見に行こうって言ってるの。拓ちゃんも一緒にどう?」
(息子なのに、どうしてこう気を遣った話し方するかな)

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