小説

『吾輩の猫である』裏木戸夕暮(『吾輩は猫である』夏目漱石)

 拓朗が本を読んでいると、窓からひょいと猫が入って来た。
「お、来たか」
 鼻先にペースト状の猫用おやつを差し出すと、ペロペロと舐め始める。
「お前、何処から来るんだよ」

 ひと月前の夜。換気をしようと窓を開けると猫が入って来た。それも入るのがさも当然、ここは私の部屋ですが何かと言わんばかりの態度で、初対面の拓朗に何かしらの催促顔。拓朗が唖然としていると、気の利かぬ奴よのうといった顔で出て行った。次の日拓朗は猫用おやつを買いに走った。
 拓朗の部屋は戸建ての一階にある。窓の外にプランターが並ぶ園芸棚があり、猫はその棚を階段代わりに登って来る。拓朗が夕食を部屋に運んで電気を点けるタイミングを見計らっているようだ。
(親に見つかると面倒かな)
 チラリと思ったが、杞憂だろう。部屋に篭った拓朗に親が近づくことは滅多にない。

 拓朗は大学受験に二年続けて失敗し、意義も意欲も見失っていた。医師の父は
「とにかく医学部を」
と言っていたが、今は
「もうどこでもいい」
と言っている。
 しかし、生まれた時から鳥籠に居た小鳥に突然
「蓋を開けたぞ、飛んでゆけ」
と言われても困る。
 子どもの頃から
「大きくなったら何になりたい?」ではなく
「大きくなったら何科の医師になりたい?」と暗示を掛けられていた。
 籠の外に空があることを知らなかった。

 疑念を抱いたきっかけは高校の時の彼女だった。相手が
「私は勉強で困っている子どもを助けたいから教師になりたいの」
と言い
「拓朗君が医師になりたいのは、病気や怪我で苦しんでいる人を助けたいから?」
と尋ねた。
 答えられずにいると
「人体が好きとか原因究明が好きとか、そっち?」
と首を傾げる。彼女は無邪気に言った。
「お医者さん以外の将来って考えたことないの?」
 言葉が胸に刺さった。

 目標が揺らいだ拓朗の集中力は脆かった。親と喧嘩し彼女とも別れ、体調まで崩して受験に失敗した。失敗が二度目となり、親子は深まった亀裂の対岸で暮らしている。

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