小説

『昏い春よ、』小樽ゆき(『蒲団』)

 あらかたの仕事を終えて顔を上げたとき、私は向かい側の教室に明かりがついていることに気づいた。目を凝らすと、教室の中ほどに制服を着た後ろ姿が見えた。時刻は夕方の6時。日も落ち切ったこんな時間にまだ生徒がいたのか、と思うと同時に、仕事が増えたと気怠い気持ちになる。私は仕方がなく重い腰を上げた。
 暗い廊下を通り抜け、吹雪の叩きつける渡り廊下を渡る。教室の前に立った時、その生徒も私に気づいて振り返った。
「先生?」
 それはあの女子生徒――吉井ゆきのだった。私は動揺して、一歩たじろぐ。よりにもよって、この生徒が残っているとは。
 彼女の手元にはスマートフォンとノート一冊のみがあり、忘れ物をして戻ってきたのだとすぐに分かった。私は努めて冷静を装い、静かに話しかける。
「どうした」
「忘れ物を取りに来たんですけど、帰りの電車がなくて」
 彼女の手元の液晶には運転見合わせの文字が赤字で表示されている。
「親御さんは、」
「雪がひどすぎて車が出せないって。雪が止むまでここにいようかと、思ってたんですけど……」
 歯切れの悪い言葉に、泳ぐ視線。教室は暖房が切れており、冷え冷えとしていた。このままここにいたら風邪をひいてしまうだろう。目の前の吉井が、じっと私の目をのぞき込んでくる。その黒曜のような双眸から逃れるように、私は目をそらし、彼女の扱いについて考えた。
 ここに彼女一人取り残して帰ることは出来ない。かといって送ることもできないし、私の家にかくまうのもまずい。学内の空調が全て止められている今、これ以上他に温まれる場所は――。
「先生」
「な、なに」
「ここ寒いから、準備室いこうよ」
 彼女は屈託のない笑みを浮かべて、そう言った。その意見を否定する理由を、考えることができない。この教室に足を踏み込んだ時から、私の脳内では警報が鳴り響いていた。
 なにか、様子がおかしい。
 喉がひくりと痙攣して、異変を知らせてくる。しかし明確な原因を掴めないまま、答えに躊躇する私を、すぅと細められた目が催促する。笑みの形を作っているのに、否定を受け入れない強いそれに、私はとうとう首を縦に振った。
 準備室に移動した私は、毛布と湯たんぽを彼女に与え、自分は冷たい椅子の上に収まっていた。何も考えないように、ただ黙々と採点作業をする。赤ペンが紙の上を走る音だけが、しばらく続いた。目線を少し上げると、湯たんぽを抱えて座っている彼女の姿が窓に反射して見えた。
 彼女の髪や制服は、渡り廊下で吹き込んだ雪にしっとりと濡れ、色を濃くしている。憂い気に伏せられた長いまつげはかすかにふるえ、彼女が身じろぎするたびに、あの時と同じ甘い香りが立ち上る。私は、自分の中にゆっくりと邪な感情がくすぶるのを、見て見ぬふりしようと努めた。

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