小説

『昏い春よ、』小樽ゆき(『蒲団』)

 その日は珍しく理科室を使うこととなり、私はもはや私室と化した準備室で解剖実験のための器具を用意していた。中庭からは生徒たちが楽しげに話す声が聞こえてくる。重いカーテンの隙間から漏れる光と音が煩わしく、新鮮な空気ごとそれを締め出した。たったそれだけで急激に暗くなり温度が下がるのは、そこより他に採光用の窓がないからだろう。固いコンクリートの壁と冷たい床、あとは理科室に続くドアと廊下に出る引き戸があるだけの閉鎖的な空間。外界の空気と切り離され、居心地のいいものだけで構成されるここは、さながら私の心そのものなのであった。
 解剖ばさみやピンセットを班の数だけトレーに入れ、時計に目をやる。生まれてこの方時が止まったままの骨格標本の頭上で、止まらない秒針が長針を一歩進ませた。もうじき昼休みが終わるころだ。皺のついた白衣を掌で伸ばし、教科書をぱらぱらと捲ってみる。この学校では特別教室使用の際、日直が準備を手伝うことになっている。彼らは数回のノックの後引き戸を開け、決まって嫌そうな顔をした。それは薬品のにおいのせいか、私に対してか、あるいはその両方か。どちらにせよ彼らがこの部屋の中に足を踏み入れることはなく、私も彼らを招くことは不本意ではないので、入り口で頼みごとをするのが常だ。
 今日は予鈴が鳴るよりも少し早く、コンコンと木製の引き戸が音を立てた。
「はいはい。どうぞ」
 プリント類の枚数を数えながらそう言うと、戸が開いて室内の空気が動く。リノリウムの床と上履きが擦れるきゅっという音に、振り返った。
「準備しに来ました」
 背筋を伸ばしてそこに立っていたのは、吉井ゆきのだった。絶句する私に構わず彼女は準備室に足を踏み入れ、私の傍までやってきた。うつむいた時に流れ落ちた黒髪を、彼女は華奢な指で耳にかける。その白いこめかみと筋の立つ細い首が、網膜を刺激して脳が揺れる。これを運べばいいですか、というようなことを聞いてくる彼女に、私はかちゃかちゃと眼鏡を押し上げながら数回うなずいた。すぐ隣から発せられる石鹸のような香りで意識が曇り、それで精いっぱいだったのだ。そんな私を、彼女の背後に立つ骨格標本がじっと見ている。
 依然言葉を失ったままの私を見上げ、彼女は小首をかしげた。
「先生? どうかしましたか?」
「今日の日直は確か――」
「インフルエンザでお休みです。流行ってるみたいで、今」
 先生も気を付けてくださいねと付け足して、彼女は教室に器具を運んで行った。ぴたりと閉じられた引き戸が、彼女の香りを室内に閉じ込める。私は無意識に呼吸を止めていたことに気付き、息を吐き出した。よどんだ空気に混ざる甘さは薬品の匂いにかき消され、それを追う私は骨格標本の視線を浴びるだけだった。

 春と呼ぶにははばかられるような2月。盆地にあるこの町は、朝から降り始めた雪で真っ白に塗り替えられていた。次第に強くなる風が窓ガラスを乱暴に揺すっている。この大雪の影響で、今日の授業は昼までで中断。生徒達や遠くから来ている教員は強制下校となったが、近所に住む私は仕事を片付けてから帰ることにした。机の上には採点中の答案用紙と用務員から預かった鍵の束がある。先に帰っていった初老の男が言うには、もうこの校内には私しかいないらしい。

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