小説

『昏い春よ、』小樽ゆき(『蒲団』)

 暗い、暗い部屋で、私はただ一人毛布を掻き抱いていた。この腕の中から、ひとかけらだって逃すまいというように。しかしながらおかしなことに、私が真に求めるものはもう既に、香りすら残さずに消え去っていたのだ。いくら耳を澄ましても、聞こえるのは己の乱れた息遣いのみ。
 あの鈴のような声は、もう二度と私を呼ばない。
心臓のあたりが柔らかく押しつぶされ、気道が狭まっていく。焦燥感に、喪失感に、体が心から冷えていく。何かに縋りたくて、しかしこの部屋には何もなくて、また無意味に毛布を抱く力を強めた。
 窓から吹き込んだ風が、重たいカーテンを僅かに揺らす。その隙間から桜がひとひら、リノリウムの床の上へ。その時私は、薄桃のそれに絶望した。

 その少女は、清廉の一言に尽きる存在であった。形のいい双眸、美しく切りそろえられた後ろ髪、そのどちらもが艶やかに黒く、ほんのりと色づく頬は透き通る程白く滑らかであった。まるで周囲の色を反射しているかのように輝く立ち姿は、どこか鈴蘭を思わせる。成績優秀、品行方正、非の打ちどころのない女生徒で、教師からの信頼もあつい。彼女は名を吉井ゆきのといった。
「ゆきちゃん、もう部活終わり?」
「うん」
 楽器ケースを抱えて渡り廊下を歩く後ろから、友人らしき人物が駆け寄る。振り返って微笑む横顔が、少し離れた理科準備室にいる私からでもまぶしく見えた。
 その歳の割に完成された美しい容姿は、彼女を高根の花に仕立て上げるかと思いきや、その内面の柔和さから慕う友人が多い。クラスや部活動の内部だけでなく、合同授業で関わる生徒たちや委員会で関わる後輩たちまでも広く好かれている。その為今この時のように、廊下で見かけるときは必ずと言っていいほど呼び止められていた。
 そうして、彼女を眺めていた私の背後、ガラスケースの中で埃をかぶった骨格標本が佇んでいる。大きな棚に囲まれた理科準備室。その主の空虚な眼窩が責めるようにこちらを見ていた。私は急に居心地が悪くなり、椅子の上で背を丸めた。窓の隙間から差し込む光が埃に反射しながら標本の足元まで照らしている。
 急激な冷え込みに、ここ最近窓を開ける頻度がぐっと減ってしまった。おかげでこの部屋は埃っぽく、じめじめとした空気と薬品のにおいで満たされている。他の校舎から切り離されたこの特別教室棟は人通りが少なく廃墟同然になっている。放っておけば埃が積もり、空気が淀んでいくこの場所は、しかし存外居心地がいい。外の喧噪や人の息遣いから一歩離れたこの場所が、私にとって少し、愛おしいのだった。

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