小説

『昏い春よ、』小樽ゆき(『蒲団』)

「せんせい」
 ふと、舌足らずに聞こえる声が私を読んだ。窓に映る彼女の目と、視線がかち合う。すぅと細められた瞳にあるはずのない色を見て、私は返事すらも出来なくなった。
 また、だ。
ぺたりと張り付いた髪を耳にかけるそのしぐさに、釘づけにされてしまう。彼女は立ち上がるとすぐそばにそっと近づいて、私の赤ペンを握る手に自分のすべらかな指を添えた。
 心臓は割れてしまいそうなほどの早鐘をうち、浅い呼吸しか出来なくなる。窓越しにいつも眺めていた少女とは全く違う彼女の雰囲気に、私は危機感を覚えた。言葉の先を聞いてはいけないと耳をふさぐ前に、彼女のかわいらしい声は私の恋、私の理想を打ち壊した。
「先生なら3万でいいよ」
 そう言って弧を描く瞳の色に、私は思わず彼女を突き放していた。驚く彼女の後ろでは、骨格標本が暗い眼窩をこちらに向けている。その視線に追い立てられるように、私は彼女を部屋から追い出し、鍵をかけて引き戸を背にした。
「帰って」
「せんせ、」
「帰りなさい」
 震えないよう、努めて絞り出した声に、彼女がつまらなさそうに鼻を鳴らすのが分かった。そのまま、特に戸惑う様子もなく足音が去っていく。
 ずるり、緊張していた背から力が抜けると、体はそのまま床へずり落ちていく。心臓は早鐘を打って、脳が鈍痛を訴える。過呼吸だ。
 3万。その数字が何を意味しているのか、分かってしまったのだ。あの口ぶりから、それが言い慣れた言葉であることも。
「……はは」
 震える喉から訳も分からず、情けない笑い声が漏れた。
 隣に並ぶ骨格標本は、何も言わない。

 あの悪夢のような夜を、今も鮮明に思い出す。季節が1つ移ろって、春風が薄桃の花びらを窓から差し入れても、私の心は動かない。
 机の上に横たわるカエルを見る。ジエチルエーテルで眠っているそれは、4本の足をピンで固定されても特に動くこともなく、白い腹を上下させるのみだ。そのじっとりと湿った腹に、いつか見た白い首筋がまざまざと思い起こされる。痛みを感じるほど張り詰める自身を自覚しながらゆっくりと息を吐き、手の中の冷たい銀色を握りしめる。良からぬ想像が脳裏をよぎり、手元がおぼつかない。薄いゴム手袋越しに、白い腹に指を這わせる。ひんやりとした皮膚を下からなぞり、あたりをつける。蛍光灯の明かりを反射するメスが、その白をツプリと裂いた。薄い表皮を開くと、滑らかな肉が見える。濡れて蠢くそれを指でなぞると、脳の芯から溶かされる心地がする。いつの間にか乱れていた呼吸を整える余裕もなく、そのまま指先に力を入れて肉を裂いた。
 その瞬間――私はそこに破瓜の色を見た。

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