小説

『走れメロス 警吏の願い』大和美宇(『走れメロス』)

 セリヌンティウスを殺さなければ良いのだ。王は広い心を持てば、もしくは王を殺そうとする者が誰一人いなくなるような国を作れば、誰も死なずに済むのだ。全ての元凶は王の悪政と、王の心に巣食う人間不信の感情である。
 警吏長が歩いてどこかへ行くと、ズフィスは大雨を降らす空を見上げた。灰色の空気を裂くようにして降り注ぐ雨粒が、まるで天の神の嘆きの涙のように思えた。
 ズフィスは、のろのろと身体の向きを変えて地下牢から遠ざかった。自分が殺すことになる男と会話し、変な情が湧くのは真っ平御免だと思ったからである。
 夕刻が近づき、ズフィスは警吏長にせっつかれて渋々と刑場へ足を運んだ。刑場は城のすぐ横に建てられているため、城とその周辺を満たす微かなざわめきが聞こえてくる。
 皆メロスとセリヌンティウスの話は聞いており、今日果たしてあの若者は帰って来るのかと噂し合っていた。
 刑吏が着る鎧は、やけに重くて窮屈に感じた。
 刑場で、ズフィスは一人の男に声をかけられた。同じような鎧を纏っていることから、恐らく彼が二人いる刑吏の片割れなのであろう。
 「やあすまぬ、お前がズフィスという男か」
 「ああ」
 「そうか、そうか。刑吏という仕事を肩代わりさせてしまって申し訳ない。貴殿もこの役目を言いつけられたときは、さぞ苦しかっただろうに」
 あまりにも恐縮した様子の男に、ズフィスはやるせなさがたちどころに萎んでゆくのを感じた。その代わりに彼が感じたのは、義務感である。自分がやらなければ誰がやるというのだ、とズフィスは強く思った。
 雨はまだ降り止む気配がなかったが、昨夜に比べると随分小降りになっていた。肌寒い朝の空気を肩で切り、ズフィスは地下牢へ歩く。
 黴臭い地下牢の通路を進むと、足元で泥がぐちゃりと音を立てた。どこからか漂ってくる腐臭に顔を顰めながら、ズフィスは一つ一つ牢の中を確認していく。
 右手の奥の牢に、一人の男が座り込んでいた。彫りの深い顔立ちの、大人しそうな男である。彼は背筋をぴんと伸ばし、ズフィスを真正面から見返してきた。
 ああこいつだ、とズフィスは即座に理解した。
 「セリヌンティウス。貴様の処刑の時間だ」
 鍵で牢の扉を開き、つかつかと中に入る。痩せ細った手首に手錠をしっかりとかけながら、ズフィスはちらと男の顔を見遣った。
 セリヌンティウスは、一言も話さずにただ前を向いているだけであった。その瞳に恐れの色は一切なく、毅然として友を信じているようであった。
 地下牢から連れ出し、ズフィスはゆっくりと刑場までの道を歩く。途中ですれ違った顔見知りの警吏たちは、一様に怪訝な顔をしながらズフィスとセリヌンティウスを見比べ、何か察したような顔をすると、そそくさとその場を立ち去っていった。
 何の抵抗も示さないセリヌンティウスを連れていると、逆にズフィスの方が落ち着かない。今までは、めっきり数が減ったものの、暴れ回るあらくれ共を引き立てることが多かったからだろうか。このように静かな罪人とは、どう接すれば良いかわからなかった。
 「よく、許したな」
 と、ズフィスは思わず呟いた。

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