小説

『走れメロス 警吏の願い』大和美宇(『走れメロス』)

 「だが、本当に王はそれを許したのか?もしかしたら、そのまま男は姿を眩ますかもしれぬ。自分が死ぬことに恐れを抱き、三日を過ぎても帰ってこないことだって十分にあり得るだろう」
 「そうだ。そしてここからが、男の提案の奇妙なところだ。男は、自分が逃げてしまうことを疑っているのならば、この市に住む自分の親友を身代わりにすれば良いと言ったのだ。自分が帰ってくる三日目の日暮れまで、その親友を代わりに捕らえて拘束するのだ、もし自分が帰ってこなければ、その友人を殺してしまって構わない、と。そうすれば、男は親友を守るためにも必ずここへ帰ってくると誓った」
 ズフィスは、驚いてしばらく一言も喋ることが出来なかった。それから少しして、ようやく唇の隙間から言葉を押し出す。
 「ということは、男は親友を身代わりに差し出すというのか?親友は身代わりを引き受けるのか?」
 「今はまだわからぬ。警吏の一人が男の友人の家へ行って、そいつを城へ連れてくる手筈になっている。友人はどうするのか、俺にはさっぱり見当がつかない」
 「その男の名は、何という?」
 「さて、俺もよく覚えていないが、確かメロスといったのではなかったか。悪い奴ではなさそうだし、むしろ正義感が強過ぎるあまり、今回のような出来事を招いてしまったのだろう。きっとその友人も好い人には違いないが、果たして身代わりを承諾するのかどうか」
 ギテリオスは嘆息し、そしてはたと気がついてズフィスの方を見た。
 「すまない、ズフィス。家へ帰る途中だったな。呼び止めてしまって申し訳なかった」
 「いや、そんなことはない。教えてくれて感謝する、ギテリオス」
 ズフィスは別れの挨拶をもう一度すると、今度こそ城から出た。
 生ぬるい風がズフィスの頰を撫で、木の葉がざわざわと不吉に揺れる。鉛色の雲が、黒曜石色の夜空を少しずつ覆い隠してゆく。
 家へ着くと、妻と子供達がズフィスを出迎えた。ズフィスはしばらくの間メロスや彼の処遇についての一切を忘れ、家族と共に過ごす喜びに浸った。
 楽しい時間とは早く過ぎ行くもので、すぐにズフィスが城へ戻る日になった。働き者の長女が昼食をこしらえ、長男がそれを包んでズフィスに手渡す。腕にしがみついてくる次男をあやしながら、ズフィスは寂しそうにしている妻に声をかけた。
 「明日は天気がいいそうだから、どこかへ遊びに行ったらどうだ?」
 「ええ。皆で野原へ出かけようと思って。きっともう蒲公英が咲いているのでしょうね」
 笑顔が戻った妻を見て、ズフィスはほっと安堵した。
 そして翌朝、ズフィスは城へ出発する準備を整えた。家から城へ戻る度に、いつも別れが惜しくなる。もう少しゆっくりしたいのを我慢し、ズフィスは家族に別れを告げ、家を出発した。
 道中、ズフィスの頭の中に段々とメロスに関する記憶が戻ってきていた。そういえば、あの男、勇敢なるメロスはどうなったのだろう。結局友人から理解を示してもらえず、もう処刑されてしまっているのだろうか。それとも、友人が身代わりになることを了承し、今頃城へ向かって走っているのだろうか。
 もしメロスが帰ってこなければ、彼の友人は大勢の人々の目の前で殺されてしまうだろう。それでは、王の思う壺だ。人を信じることが出来ぬ王はますます人間不信に陥り、国民も絶望のどん底に叩きつけられてしまう。ズフィスはそんなことをぐるぐると考えながら、二日ぶりに城へ足を踏み入れた。

1 2 3 4 5 6 7 8