小説

『走れメロス 警吏の願い』大和美宇(『走れメロス』)

 見覚えのある色に既視感を抱き、ズフィスはそっとその黄色を探す。
 その黄色の持ち主を探し当てた瞬間、思わずズフィスは悲痛な呻き声を上げた。
 ありえない、と否定したい。そんなわけがない、嘘だろう、と全力で叫びたかった。
 群衆に紛れてズフィスを見上げていたのは、最愛の家族であった。
 恐らく、こっそりズフィスの職場を訪れて彼を驚かせたかったのであろう。
 愛しい妻が、とても悲しそうな顔でズフィスを見上げている。晴れ着を着てめかしこんだ長女が、泣きそうな顔で震えていた。たくさんの蒲公英を入れたバスケットを抱えた長男は、見たこともない人混みと熱狂にひたすら困惑しているようであった。妻の腕に抱きかかえられた次男は、何が起こっているのかいまいちよく理解出来ていないのだろう、無邪気な顔で手を振ってくる。
 ズフィスは彼の家族に、自分の仕事は警吏だと言ってある。城の門を警護する仕事だと。しかし今の彼はどんな仕事をしている?何の罪もない罪人の胸を穿とうと、鉄の杭を構えているではないか。
 どうして、と妻の唇が動いたのがわかった。ぽろり、と透明な雫が彼女の頰を伝う。
 その涙を目にした瞬間、思わずズフィスはどこかを走っているはずのメロスに祈った。頼む、頼む。一生のお願いだから、どうか日没に間に合ってくれ。お前が帰って来れば、王は考えを改めてくれるかもしれない。お前が来なければ、誠実な友人は群衆の前で殺されるだろう。そしてズフィスの家族は、目の前で無実の罪人を手に掛けるズフィスを見て嘆くだろう。
 自分勝手な願いかもしれない。ああ、確かに自分勝手だとも。結局は自分の家族が大事なのだ。しかし、大事なものを大事と思って何が悪い。セリヌンティウスにとって、メロスにとって、お互いが何より大切な友なのであろう?ならば自分にとって何より大切な存在は、目の前にいる家族なのだ。
 お前が帰ってくるならば、何だってしよう。刻一刻と沈みゆく太陽を、止めてみせよう。暗くなってゆく空を、明るくしてみせよう。だから、だからお願いだ。間に合って来れ、メロス。走れ、メロス!
 そのときであった。
 まるでズフィスの祈りが天に届いたかのように、一人の青年が刑場に乱入してきたのである。
 もはや服としての役割を果たしていない、ぼろぼろの布を引っ掛けただけの姿。その目は血走り、体中が薄汚れている。ぼさぼさの頭には泥がこびりつき、満身創痍のようであった。
 一目でズフィスは、彼がメロスだとわかった。
 ズフィスは、刑吏の片割れに向かって吠えた。
 「刑の執行を取りやめろ!メロスが帰ってきたぞ!」
 片割れの男は、驚いたように目を見張った。鉄の杭を持つ手が緩む。ズフィスは、慌てて上へ進んでいくセリヌンティウスの縄を止めた。
 メロスは必死に群衆を掻き分け、小鹿のようにぶるぶると体を震わせながらセリヌンティウスの足に齧り付いた。群衆はどよめき、メロスを許せと口々に声を上げる。ズフィスは大急ぎでセリヌンティウスの縄をほどくと、すぐに彼をメロスの元に行かせてやった。
 ズフィスは、自分の家族を見た。妻は、泣き笑いのような表情を浮かべていた。それを見て、何だか自分も泣きたくなってきた。
 セリヌンティウスが、メロスの頰を殴った。君を一度疑ってしまった、頼むから殴ってくれ、とメロスが頼んだらしい。そしてセリヌンティウスは、自分も一度だけメロスを疑った、同じように自分も殴れ、とメロスに言った。友人は頷いて彼の頰を殴り、二人は同時に「ありがとう、友よ」と言うと、嬉し泣きをしながらひしと抱き合った。
 その様子を見届けたズフィスの胸に、形容しがたい感情が込み上げた。そうか、これが真の友情というものなのか。王が信じたくて信じたくて、しかし疑ってしまったものか。

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