小説

『走れメロス 警吏の願い』大和美宇(『走れメロス』)

 前を歩くセリヌンティウスが、少し驚いたように肩を揺らした。振り返ることはせず、彼は足並みを崩さず歩き続ける。
 「メロスとは、何年も前からの友人です」
 ぽつり、と囁くようにセリヌンティウスは言葉を発した。その一言には、深い親愛と敬意が込められているようだった。
 「しかし、己の命を賭けるのだぞ。家族でもない奴に、そうやすやすと命を預けられるのか」
 思わずズフィスは、声を荒げた。そしてそのとき、はたと気がついた。そうか、自分はこの青年が怖いのだ。今まさに自らの命が失われようとしているのに、微塵も怯えていないこの青年の高潔さが怖いのだ。無条件に友を信頼出来るこの青年のまっすぐさが、何より怖いのだ。
 「私は石工です。しかしそれは、本来ならば私が歩むべき道ではなかった。両親は私に、何十年も続いてきた家業の商会を継ぐことを望みました。私はそれが嫌で嫌でたまらなくて、家を飛び出したのです。当てもなく辿り着いた先で知り合ったメロスは、偶然出会ったわたしの身の上話を聞くやいなや、すぐさま味方になってくれました。追いかけてきた両親に、出会って間もない私の友人として私を庇ってくれたのです。お願いですからこいつを石工にさせてやってください、夢があるだけこいつは立派です。あなた達お二人は、息子さんを誇るべきですよ。それに私が見たところ、この青年は才能があるようだ。この意思の強い瞳をご覧なさい、すぐに一人前の石工になって親孝行をしますから。メロスはよく口が回る男だから、両親は不本意ながら私の夢を尊重してくれました。ああ、その日の夜のことは今でも覚えています。私とメロスは、まるで生まれたときからの親友のような調子で酒を飲み、料理を食べ、子供のようにはしゃぎ回りました。家を飛び出してきた私のために、メロスは寝る場所をくれました。そのときからメロスは、私の恩人であると共に、かけがえのない友人となったのです」
 ズフィスの気も知らず、セリヌンティウスは語った。語るうちに少しずつ彼の口調に熱が入り、懐かしそうな声になった。
 二人は刑場に入り、セリヌンティウスは中央に立つ磔の柱の元へ行くように言われた。
 手錠を外すと、セリヌンティウスは初めてズフィスの方を振り返った。赤い血のような夕陽が、セリヌンティウスの顔を照らす。
 「名も知らぬ刑吏よ。今から私の命を奪う者よ。メロスの話を聞いてくれて、心の底から感謝いたします。きっと私が話さなければ、人々の中でメロスは悪者となり語り継がれるでしょう。あいつはただ正義感が強くて不器用なだけなのです、決して悪者なんかではないのです。そのことを最後に誰かに伝えられて、私はとても幸せです」
 深い灰色の瞳に見据えられ、ズフィスはぴくりとも動けずただ黙っているだけであった。
 セリヌンティウスに縄がうたれ、少しずつ体が上へ上がってゆく。その様子を目の当たりにした群衆は、熱を持って激しく蠢いた。
 早く終わりますように、とズフィスは神に願った。信心深い方ではないし、神などいないと常日頃から考えている彼ではあったが、このときばかりは何かに縋らずにはいられなかった。
 ズフィスは、もう一人の刑吏と共に磔台に上った。手にした大きな鉄の杭を、今からあの青年の心臓に向けて穿つのだ。ずっしりとしたこの重みは、人の命を奪う重みか。無意識のうちに汗ばみ震えた手に、ズフィスは気づかぬ振りをした。
 セリヌンティウスの体が釣り上げられ、少しずつじわじわと上へ上がっていく。上へ近づくたびに、群衆の熱気と興奮はどんどん強くなっていく。
 すると不意に、ズフィスの視界を鮮やかな黄色が掠めた。

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