小説

『星になんてならなくていいのに』古村勇太(『よだかの星』『雨ニモマケズ』)

「いやいや、別に悪く言ったわけじゃない。いい歳した大人だって、大体どこか子供なものさ。俺だってな」
 おじさんはにかりと歯を出して笑った。夜の闇の中で、不思議と歯の白さが際立って見えた。
「ほら」
 おじさんは、小さく折りたたまれた紙きれを差し出してきた。
「本に挟まってた。少なくてもお嬢ちゃんの兄貴は、周りの奴よりちょっと大人だな」
 紙切れは、小さなメモ帳を折りたたんだものだった。端の方が少し黒くなってはいたが、運よく燃えずに済んだらしい。そこに書いてあった字は、確かに兄のものだった。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
理不尽ニモ不条理ニモ負ケヌ
丈夫ナ心ヲモチ
欲ハナク
決シテ奢ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
太陽ノヨウニ大キクナクトモ
月ノヨウニ綺麗デナクトモ
広イ宇宙ノ銀河ノ中デ
小サクケレド確カニ光ル
取ルニ足ラナイ一粒ノヨウナ
星ノヨウニ
私ハ生キヨウ    

「これは俺の想像だけどな。お前の兄貴は、自殺なんかしてねえよ。こいつはそんなタマじゃねえ。俺も会ってみたかったな」
 私はこの短い詩を、何度も何度も読み返した。最後の一文。私は生きよう。この一言が、梅雨の終わりに吹く風のように、私の心を吹き抜けた。けれど。
「やっぱり、兄は大馬鹿です。嘘つきです」
 星のように、なんて言って、本当に星になっているのだから世話はない。ただそのままで、生きていてくれるだけでいいのに。
 なんで死んじゃったんだろう。なんで隣にいないんだろう。
 お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん。
「星になんてならなくていいのに」
 涙を通して眺めた夜空は、不思議と星がくっきり見えた。

 家に帰った私の様子を見て、母はひどく驚いていた。
 しかし、私はそれに応対する気力もなく、「ごめんね、あとで話すから」と言って、やや強引に部屋に引っ込んだ。
 泥のように眠る中で、私は昔の夢を見た。兄と一緒にブランケットにくるまりながら、夜空を眺めた日の記憶。
『お母さんなんか消えちゃえばいいのに』
『そんなことを言っちゃだめだよ』
『どうして。お兄ちゃんのことばかりいじめるのに』
『家族とか友達とかって、奇跡で繋がれたものなんだから。だからそういう繋がりは、簡単になくしちゃいけないよ』
 当時はわからなかったその言葉の意味が、いまは少しわかる気がした。

 翌日、私が起きた時にはもう正午を回っていた。母は私を起こさず、そのままにしていてくれたらしい。
 私はリビングに居た母に声をかけた。
「母さん、お願いがあるんだけど」
母は私を責めもせず、ただ「なぁに?」とだけ答えてくれた。
「髪を切ってほしいの。できればちょっと短めに」

 母が私の髪を切る。眼前の鏡の中では、物心ついた時からずっと伸ばし続けていた髪がみるみる短くなっていた。
「あの子が生まれた時、周りから色々言われてね」
 鋏の音が響く中、母が静かに語り始めた。

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