小説

『常世のモノ語』長月竜胆(『赤い靴』)

 月明りに照らされた、暗緑の小高い丘。その上を通る静かな峠道の端に、一台の車がポツンと止まっていた。
 一目で高級車と分かるその車の後部座席には、やはり一目で資産家と分かる、身なりの良い二人の男女が座っている。六十歳ほどの男は、シックにタキシードを着こなし、品の良い老紳士といった人物で、三十歳ほどの女は、落ち着いた青いドレスに身を包み、美しき貴婦人といった人物。はたから見れば、親と子のようでもあったが、二人は夫婦だった。二人の他には、四十代のきちっとしたスーツ姿の運転手が一人おり、車の外でどこかに電話をかけている。
 運転手の男は、通話を終えると、運転席のドアを開けて後ろの二人に話し掛けた。
「代わりの車とレッカー車を手配しました。しかし、どちらも到着までは三十分ほどかかりそうです」
「いやはや、困ったね。こんなところで立ち往生とは」
「申し訳ありません。事前に点検した際は、何の異状もなかったのですが」
「君のせいではないよ。まあ、こういうこともあるさ」
 老紳士は座席にゆったりと腰かけ、落ち着いた様子で応じた。隣に座る夫人も同様で、
「そうね。それに丁度いいんじゃないかしら。ここは空気も綺麗だし、酔い覚ましに夜風にでも当たりましょうよ。華やかなパーティーもいいけれど、こういうのも素敵でしょう」
 と、窓を開けてのんびり外を眺めている。
 辺りには街灯がなく、空には丸い月と多くの星が輝いていた。丘の上であるため見晴らしも良く、眼下には広く木々が生い茂っていて、爽やかな春風にざわざわと揺れている。
「――ねえ、あなた。あそこに見える明かりは何かしら。建物があるみたいだけれど」
 ふと夫人が言って、老紳士も窓のそばへ顔を寄せた。夫人の指差す先には、森の中へ隠れるように、大きな屋敷の屋根と窓明かりがうっすら見えている。
「おや、本当だ。ロッジの類ではなく、西洋式の館のようだね」
「不思議よね。明かりがついているということは、住人がいるんでしょうけど」
「うむ、そうだな。散歩がてら少し覗いてみようか」
「あら、面白そうね」
 二人はそんなことを話しながら、ドアに手を掛ける。
「旦那様、見たところ横道がありませんし、鬱蒼としていて付近には明かりもありません。危険ではありませんか」
 運転手は心配そうに言うが、
「大丈夫だよ。傾斜は緩やかだし、この辺には危険な獣もいないだろう。最近では街中の方が物騒なくらいじゃないか」
 老紳士は笑いながら言って、夫人と共に車を降りた。
「……分かりました。では、少々お待ちください」
 運転手は車の後ろへ回って、トランクからランタンを取り出す。
「どうぞ、こちらをお持ちください。懐中電灯もありますが、足元を照らすのなら、こちらの方がよろしいかと」
「うむ、そうだね。ありがとう」

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