小説

『常世のモノ語』長月竜胆(『赤い靴』)

「フフ。きっと呪いなど、ありはしないのだろうな。打てば響く。それだけのことか」
 老紳士は頷きながら、赤い靴の入ったショーケースに歩み寄る。そして、少し考え込むように靴を見つめると、
「この赤い靴だが……キープしておいてもらうことは可能かね?」
 と、青年に尋ねた。
「キープ……ですか。何故でしょう?」
「今は足を少し悪くしてしまったんだが、ああ見えて妻は社交ダンスが好きでね。昔はよく一緒に踊ったよ。だから、いつか全てが過去になった時、この靴を買わせてもらいたいんだ。そして、彼女とまた踊りたい」
「……そんな日が来るのでしょうか。奥様は逆恨みでも時計を憎み、そして恐れるでしょう。私や赤い靴、他の物のことも。奥様にとっては、全て忌まわしき現実です。それに、あなたへの愛が確かにあったものだとして、それを取り戻せるかどうか……」
 青年は珍しく表情に影を落とす。すると老紳士は、「“ささやかな夢のようなもの”だよ」と笑い、それにね、と言葉を続けた。
「……君ならば当然、アンデルセンの『赤い靴』の結末は知っているだろう。あれは恐ろしい話ではあるが、悲劇ではない。戒めと救いの物語だよ。罪や過ちは消えないが、それが全てを奪うわけではない。希望はいつだってあるんだ。一度は終わってもいいと思った人生だが、続く限りは、私も舞台に立ち続けるよ。例え、道化の役だとしてもね。どんな結末が待ち受けているか、それはその時が来るまで分からないのだから。生きるというのは、そういうものだろう?」
 老紳士は晴朗とした態度で言い、手に持っていた懐中時計を青年に差し出した。青年はゆっくりとその時計を受け取ると、優しくガラスのヒビに触れる。そして、
「……傷も含めて、刻まれる歴史となる……」
 そう小さく呟くと、やがて微笑みながら頷いた。
「分かりました。赤い靴のご予約、承りましょう」
「そうか。ありがとう」
 二人は約束と共に、握手を交わした。
「――最後にひとつ、聞いていいかね」
 老紳士は帰り際、見送りに立つ青年の方を振り返って言った。
「何でしょうか」
 青年が聞き返すと、老紳士は悪戯っぽく笑みを浮かべながら、青年の目を覗き込むようにじっと見つめる。そして、
「……君は、悪魔なのか、それとも天使なのか?」
 青年は一瞬黙ったが、すぐに曇りのないガラスのような目で老紳士を見返すと、穏やかな笑みと共に、
「どちらでも同じことです」
 と、静かに答えた。老紳士はフッと小さく笑う。
「……そうか。そうだな。今さら野暮なことを聞いたか」
 老紳士は軽くお辞儀をするように頷くと、「いずれ、また」と言って、青年に背を向けた。青年は「お待ちしています」と、それを見送る。遠い日の再会を思って、二人は離れて行った。

 夜明けが間近に迫った頃、青年は館の戸締りをして、それから一番奥にある部屋へと入っていった。そこには、電話ボックスほどの大きさの、ガラスのショーケースが一台置かれている。青年はその中へ入ると、正面へ向き直って、姿勢正しく直立した。同時に館の照明が落ち、時が止まったように、静寂と暗闇が訪れる。
 やがて、柔らかく差し込んだ朝日が、薄暗い部屋を照らし始めた。室内に動くものは何もない。奥に鎮座するショーケースの中で、等身大のマネキンのような美しい人形が、ただただ黙って、穏やかな表情を浮かべているだけだった。

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