小説

『常世のモノ語』長月竜胆(『赤い靴』)

「分かるような気もしますが、分からないような気もします」
「フフ、正直だな。君は昔の私に似ているかもしれない」
 老紳士は微笑み、それからまた、時計の方へ視線を落とした。そして、ぼうっと眺めながら、ふと口を開いたかと思うと、「少し昔話をしようか……」と言って、おもむろに語り始める。
「……私は名家の生まれでね。恵まれた環境の中で何不自由なく育った。幸い学業や商売の才能もあったようで、大抵のことは思い通りになったよ。常に名を背負い、両親の期待に応えることが、私の誇りだった。ところが、私が二十八になった頃だ。不幸な事故で、突然両親を同時に失った。それがきっかけだったのかな。急に何をするにも味気なくて、むなしくなってしまってね。誤魔化すように高い目標を掲げ、様々なことに挑んではみるが、それを成し遂げても、やはり満たされることはない。そんな生活を繰り返して、およそ二十年だ。人生の折り返し地点に差し掛かって、尚更考えるようになった。何のために生きているのか。考えれば考えるほど、泥沼に沈み込んで行くようだったがね。彼女と出会ったのはそんな時だ。まるで空を見上げたら流星が駆けたような、そんな奇跡のような出会いだったよ。彼女は言った。『同じことをするのでも、誰と過ごしたかによって、その意味はまるで変わる。人の数だけ物語は存在し、だからこそ一人では退屈なんだ。満天の星の下で、俯いているのはもったいない』とね。彼女がとても輝いて見えた。その時の言葉がきっかけで、私は人生を取り戻せたんだよ」
 老紳士は過去を懐かしむように目を細め、微笑む。
 青年は、相槌を打つこともなく、終始無言で話を聞いていた。やはり表情を変えないままで、反応らしい反応を見せることもなかったが、何度目かの瞬きの後で突然、「私も一つ、昔話をいたしましょう」と、話を始めた。
「……その女性は、生まれた時から病弱でした。一日の大半をベッドの上で過ごし、窓の外の景色をいつも眩しそうに眺めていました。そんな彼女に、両親はある日、この赤い靴をプレゼントしたのです。いつか元気になったら、この靴を履いて、太陽の下を一緒に歩こう。そんな、ささやかな夢のようなものです。彼女は靴をとても大切に扱いました。そしてある時、靴の持つ特別な力に気付いたのです。この靴を履けば、身体が羽のように軽くなって、風の中を舞うように踊ることができる。両親や医者には安静にするように言われていたので、彼女はこのことを誰にも話しませんでした。体調の良い時に、こっそりとこの靴を履いて、人知れず踊りを楽しんだのです。それは彼女にとって、この上なく特別な時間となりました。しかし、無情にも、彼女の体調は悪化の一途を辿ります。もはや最期の時が近いことは、本人を含め、誰の目にも明らか。死が間近に迫って、彼女は自身の秘密を両親に打ち明けました。彼女はもう立つことすらできないほど、酷く衰弱していましたが、最後にもう一度だけ、と両親に頼んで赤い靴を履かせてもらいます。すると、自由のきかないはずの彼女の身体はゆっくりと起き上がり、庭へ向かって歩き出したのです。そこで彼女は、両親と共に、陽の光を一杯に浴びながら踊りました。それは夢の叶った瞬間であり、家族で過ごした最後の思い出です。やがて彼女は、満足したように草むらに寝転がりました。そして、温かなそよ風の中で、眠るように息を引き取ったそうです」
 青年の声は、まるで録音された音声のように、機械的な秩序を持っていた。しかし、それでいて、不思議とどこか慈愛の念のような温かみを含んでもいる。老紳士はそっと、目頭を押さえた。
「……ずるいな、君は。良い話もあるんじゃないか」
「話すべき時に、話すべき物語を。それが私の、語り部としての信条ですので」

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