「先生、ありがとう。それは前に言ってもらったからいいよ」
「え、そうなの?」
「覚えてないだろうけど、教師と生徒にしては結構仲良かったんですよ」
敬語になったりならなかったりする「彼」の口調がなんだか心地よかった。仲が良かったという「彼」は以前もこうして私と話していたのだろうか。そんな友人のことを知らぬ間に失っていたのだ。もはや私は、人知を超えた何かが働いているせいに違いないと思いたがっていた。
「だからなんです、俺が死にたいと思ったのは。友達も家族も普通にいて、不自由なく普通に過ごせて、こんなに気にかけてくれる先生もいて、嫌なことも好きなこともそれなりにやって……。振り返ってみたら、もう十分だと思った。これ以上何を望むことがあるんだろうって、本気で思った」
「だったら、それがこれからも続くようにしないと、周りの人たちは悲しむだろ」
「だから不本意だったって言ったでしょ。そうならないように、ただ死ぬんじゃなくて消してもらってるのに、ここまでついて来ちゃうんだから。本当はもう、俺は風景の一部みたいになってて誰も気にしないはずなんですよ。実際、こうなってからは先生と鬼のおじさん以外の人とは誰とも触れ合ってないし」
「誰ともって、家族とも?」
「家族こそですよ。記憶を消すのも特別手間かかったんだから」
「彼」の部屋だったところが突然無人になっては家族の記憶が消えていても困惑させてしまうので、「彼」の記憶を少し家族に移し替えて、自身の記憶と混同させることによって、家族みんなが使っていた部屋だと誤認させたのだという。それからは一度も家に帰っていないにも関わらず学校も警察も動くことはなく、家族にも何も察知されていないと「彼」は確信した。
「三週間くらい経つけど、もう空腹も寒さも感じないし、気楽ですよ」
ヘラヘラと笑いながら話す「彼」の様子に気が抜けてしまった。話を聞けば聞くほど死に向かっているようであるのに、本人がこの有様では悲しみも焦りもあまり湧いてこなかった。同じ学校の生徒の中には病に打ち勝って、立ち直ろうとしている子もいるというのに。そう言ってやろうかと思った時、表崎先生と行くはずだった見舞いのことを思い出した。スマホを点けると時刻は六時を過ぎており、表崎先生からメールが届いていた。
時間を確認して、辺りがすっかり暗くなっていることに気づき、私は荷物を持って立ち上がった。結局のところ、これから「彼」がどう消えてゆくのか具体的な方法についてもわからず、すぐに介入する方法も特にない以上、ずっと神社に張り付いているわけにもいかなかった。
「先生、今忙しいでしょ。俺のことより明日の学校のこと考えた方がいいですよ。それじゃ」
事実、「彼」が生徒であるという記録はクラス名簿からは消えていた。「彼」の言うことが本当なら他の物も同じようになっているのだろう。だとすれば私にはもうどうすることもできない。それでもせめて何か「彼」との間に形として残っているものはないかと別れ際に質問をした。
「何か、僕と話したこととか、思い出深いことってある?」
「……はな……かしの……」
「彼」は何かを呟いたが、すぐに「いや、やっぱり気にしないでください」と取り消した。
すいません、と言って頭を下げる「彼」に私は食い下がることができなかった。